懐柔

 起床時刻は午前4時。何日か洗濯していない白装束を纏い、工場へ。食事は朝と夜に出される粥のようなもののみ。それから23時まで働きづめ。唯一、休めるのは一週間に一回ある集会の日だけ。男女で大集会場に集まり集会を行う。その集会で見せる曼陀羅の幻覚で祈愛会は成り立っているのだった。

 私と茉莉はとにかく泉依子に接触することにしたのだ。口ぶりからして、《影》のことを何か知っているとは思えなかったが。何かしら手がかりは得られるだろうし泉を助けられるかもしれなかった。

 

 当番の信者から粥を受け取り、泉の隣の席に座る。いつものように茉莉は泉の正面に。『硲姉妹』で泉を囲うわけだ。

「あーっちょっと私の粥の方が多いかも!依子ちゃんにあげるよ!ほら、お腹の子のためにもさ」

 茉莉はにっこり笑って粥をスプーンで掬い出した。茉莉は人の懐に入るのが本当に上手い。いつの間にかに、ちゃっかり「依子ちゃん」だなんて呼んでいた。泉が少し周りを見回し人差し指を唇に当てる。

「ダメだって言ったでしょう......ご飯の量だって運命だから。運命に他人が干渉しちゃダメだもの」

 押し返された粥を見て茉莉が唇を尖らせる。それを見計らって私は泉の耳に口を寄せた。

「これしかご飯が配られないのはおかしいんじゃない?依子ちゃんいつも仕事中お腹鳴らしてるでしょ」

「そ、それはっ」

 泉が無意識に腹へ手をやった。

「ほら、食べなよ。ね?」

 茉莉のような笑顔を意識して泉へ向けて見せる。鞭と飴。祈愛会の本当の姿という鞭を与えて、優しさという飴をやる—茉莉が思い付いた案だった。なんかワケありっぽいからあたくしたちに依存させちゃいましょう!とか言っていたような。とんでもない中二病女子。

「う.......そうだね。茉莉ちゃんも月子ちゃんもそう言うなら」

 泉がスプーンを茉莉から受け取って食べ始める。流されやすい。それだけじゃなくて人を信じすぎる。普通の信者なら私たちの言うことに耳をかさなさそうだが。

 泉が粥をすすりながら口を開く。

「なんでそこまで私を気にかけてくれるの?それに教祖様を疑うようなこともなぜ.......」

 なんと言おうか迷ったところで茉莉が身を乗り出した。とびっきりの笑顔はいつも通り。


「友達だからだよ。親友になりたいからだよ」


 泉が息を呑んだ。その目は私たちを疑うことを知らない。

「茉莉のバァカ。私たちもう親友でしょう」

 二段構えの「飴」。友情という彼女の幻想は幻覚よりずっと甘い。私たちは彼女に甘い夢を舐めさせなければならない。

 泉はスプーンを取り落として、白い袖で目を擦った。涙がつたって落ちていくのを見ていた私は泉の肩を抱く。

「ありがとう.......そんな、風に.......」

「そう、依子ちゃんは私の親友。だから、教えてくれる?」

「何を......?」

 泉と視線を合わせる。睨みを効かせないよう、慎重に慎重に。

「依子ちゃんに何があったのか」

 まずは班長の懐柔。私たちは詐欺師の方が向いていたかもしれない。

 泉の目が揺れ、膨らんだ腹を指す。白く細い指先が腹の上を辿っていく。

「その子の名前、決めているの?」

 腹に当てられた両の手の平は優しく撫でる。依子のその目は慈愛で満ち溢れていた。

 デジャヴ。そうか、あの聖母マリアの目をしているんだ。

「みのり。男の子か女の子かまだ分からないけど。そう、付けようって決めてるの」

 ふんわりと微笑んで、また依子は粥を口へ運ぶ。その様子は成熟しきれていない少女のようにも見えたし、窓辺でたたずむ淑女のようにも見えた。私たちは泉の年齢を知らない。20代と言われればそう信じるが30代と言われても信じてしまう。

 宿った腹の子を愛おしげに撫でる泉は常にそんな雰囲気を纏っているのだった。

「みのり.......さんって呼ぼうかな。ねぇ撫でていい?」

 茉莉が人なっつっこい笑顔で寄ると泉は頷き腹を差し出した。茉莉のまだ小さい手が腹を滑っていく。

「みのりさん、元気ですか?みのりさん」

 泉に撫でるよう仕草で示され私も手を触れる。の気配よりも迫ってきたのは依子の温かさだった。生きているんだ。生きてここにいるんだ。

 体温が胎児の存在を浮き上がらせているようだった。


 今日はこれ以上、問い詰める必要はない。茉莉はそう判断したようだった。みのりさんから手を離し粥を食べ始める。このあまりにも母らしい表情を見てしまったら、過去を思い出させるようなことはさせたくない、なんて思いが生まれてしまうのだ。

 幸いタイムリミットは無いはずだった。少しずつ泉と仲を深めていけばそれで良かった。

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