祓え


「......凄い空気だな」

 白狛が静かに呟く。異様な空気は私も感じていた。人間の悪感情が集まるとそれはそれは恐ろしい空気が出来上がる。霊感がある人間は気分が悪くなる。一般人でさえもその空気の悪さはわかるものだ。私の場合この空気を発生させることも仕事の一つだったからどんなものかはよく知っているはずだった。

 ただこの空気は私の知るどんなものより濃度が高い。憎悪を濃縮したかのような——

 ふと燕が前に出た。すらりと長い手が風を切る。


『清-キヨメ-』


 ミルクティー色の髪の毛がふわりと浮き上がる。薄暗い路地裏にすっと光が宿ったかのように思えた。呼吸をするのが大分楽になったのだ。

「これで少しはマシになりましたかね」

「えぇ。もしかして貴方は」

「祓うことが専門です!除霊、呪いの解除、祈祷。よく《睨み》を解除していましたよ」

 燕が私に笑いかけた。全く嫌味のない笑顔に半ば唖然とする。

「俺の数代前は魔女がいたらしいんですけどね。どういう訳か祓う力を生まれ持っていたんです。」

「こちらの能力と祓う能力は紙一重ですもんね。方向さえ変えてしまえば私も祓うことはできる。」

 そう私が呟いた時だった。    

 赤い紐が、弾ける。

「《影》!!」

 甲高いボーイソプラノ。身体が宙を舞い青天が目の前にあった。何が起きたのかわからないまま地面に叩きつけられる。

「月さん!」

 白狛の柔らかい手が私の手を引いた。荒い息遣いをしながら視点を合わせる。3メートルはあろうかという黒い人の形。全身が黒い霧で覆われているのだ。即座に感じたのは生理的な嫌悪感だった。


『祓-ハラエ-』


 燕が右手を突き出した。《影》がほんの少し揺らぐ。何とか立って私は《睨み》を効かせた。黒い光が《影》を貫くのを見届けて身構える。予想通り胸のあたりに衝撃が襲ってきた。大分反動が大きい。

 唇から飛び出した血を拭って《影》を見上げる。《影》の胸のあたりから赤い液体がたれていた。一応効いてくれたらしい。でも普段の威力はこんなものではないのだ。

 胸を抑えながら室外機の陰に隠れ《影》を視界に入れる。心臓は鼓動のスピードを加速させていた。

 燕が接近して祓を叩きこんでいた。傍で白狛は果敢に《影》に飛びかかっていた。手元にナイフのようなものを持っているようだ。あんなちゃちなもので《影》を切れるはずがない。でも《影》は確実に傷を負っている。思い当たる節が無いわけではない。だが今はそれどころではなかった。

 最も反動が少なく《影》にダメージを与えられる《睨み》を。


『棘地獄』


 狙い目は首の辺り。放った黒い光が尖りながら《影》へ向かっていく。狙った通りに棘が首の辺りへ刺せたようだった。

 この《睨み》は一撃で仕留めるためにあるものではない。相手を長期に渡って苦しめる為の《睨み》なのだ。仕事で使うのは圧倒的にこの《睨み》だ。効果的に相手を苦しめられるしその痛みに大した疑問は抱かない。その痛みに慣れてしまう。だからもっと痛みを大きくしてほしいと頼む依頼者がほとんどだ。そして痛みを大きくするたびに金は入ってくる。依頼者にも私にもなんともオイシイわけだ。

 ただ一つ気がかりなのは棘地獄が苦しめるのに特化していることだ。殺すことは絶対に出来ない。そもそもこの《影》に苦しみがあるのかさえ怪しいのだ。

 《影》は少し身をよじった。まだだ。まだ。しっかりと睨んで棘が伸びていく様子をイメージする。とりあえず《影》を弱らせればそれでいい。私の能力は祓には向いていないのだから。祓ってしまえば私は反動で死んでしまうだろうから。

 必死に《影》の拳を避けていた白狛がこちらを向く。私のしたことに気づいたらしい。口角がにゅっと上がっていた。どうやら素の身体能力は白狛が一番高いようで小柄な身体で《影》を誘き寄せていた。そのおかげで燕が祓の儀式を出来るようだ。すでに《影》の身体には無数の札が貼り付いていた。

 あともう一押しのはずだ。両目で《影》の姿を捉える。負担が掛かるがしょうがない。どうせこの身体はとうにぼろぼろだ。


『針地獄』


 気色悪い《影》の中から針が生えてくる。一度に5本ほど飛び出て血が飛び散った。濃い血の匂いがしみていく。さらにイメージを膨らませる。あと10本ほど。

 調整通りもう10本生えた。それを見た瞬間身体中に強烈な刺激が走った。針で全身を突かれているかのような痛み。痛みは激しくなるばかりだった。針というか包丁で身を抉られているのではないだろうか。そう思う程だ。のたうちまわりながら《影》の様子を確認する。

 大量に針で貫かれているというのに《影》はまだ勢いを落としていないようだ。むしろ先程よりスピードは早まっているようだ。燕が貼った札も振り落とされている。酷く厄介だ。

 身体の痛みはいまだ強い。でも、まだいける。目を見開き念じる。


『縛-シバリ-』


 最高強度の、縄を。

 紫色の光の束が《影》を取り巻く。暴れるごとに縛りは強くなっていく。

「今のうちに!」 

 燕が小さく頷く。大量の札が空に巻き上がる。その瞬間口いっぱいに血が広がった。脳天をかち割られているのではないのだろうか。こんな反動は初めてだった。地面に血が広がっていくのを虚ろに眺める。頭の奥に「死」という文字が浮かび上がっていた。


——嫌だ。まだ19年しか、生きていないのに?こんな《影》なんぞにやられてしまうのか?


 ぼやけた視界の中で白狛が笑っていた。

『分離』

『爆散』

 黒い霧がパッと晴れる。《影》、いや骸たちがあらわになった。そこにはおびただしい数の人間の屍体が重なっていた。目を背けそうになるのを我慢する。

 燕が屍体に近づいて腕を振り上げた。

『祓-ハラエ-』

 屍体がその途端に黒い粉となって散っていく。あっという間のことだった。黒い粉が舞い消えていく。そして残されたのは人間の一つの骸だった。げっそりと細い身は性別も判断できない。反射的に私はその骸にかけより手を合わせた。

 神にも仏にも私は祈ったことがなかった。いくら祈っても現実は変わらない。運命は自ら切り開いて生きていかなければいけない。この業界に何年も身を置いてきてそれは分かっていたことだった。今更、祈ってやるものか。

 それに神がいたら私はきっとそいつを殴っている。こんな能力を何故私たちに授け、不平等な現実を突きつけたのか。


 それでも、死を強いられたこの人たちを天国とやらに運んで欲しいと願った。


「月さんは優しいですね。貴方の怪我はそれどころじゃないと思うんですが」


 白狛が私の首筋と腹をさす。慌てて傷口を抑えようとした時視界が回った。どうにかしなければ、と思ったのだが身体が動かない。

「月さん!?」

「......僕......医者呼んできます」

 身体中から血液が流れ出していく。不思議と安らかだった。あの母の腕に抱かれているかのような......

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