その一歩が

きと

その一歩が

 春の風が吹き抜ける3月。ある高校では、卒業式を迎えていた。

 といっても式自体はもう終わり、みんな帰りだしている時間だった。

 部室棟へと向かう廊下。ここにも卒業生の姿があった。

「待て、番場ばんば!」

 その声に背を向けて歩いていた少年は足を止める。そして、深くため息をすると面倒くさがりながら振り向いた。

「なんすか、先生。部室に荷物取りに行きたいんですけど」

「聞いたぞ、プロを目指さないとはどういうことだ! お前の才能なら確実に日本……、いや世界だって狙えるんだぞ!」

「……だから、言った通りですよ。大学に進学して教師を目指します」

 恐らく他の教師にも同じことを聞かれているのか、返事のテンプレートが出来上がってるようだった。

 少年の名は、番場光輝ばんばこうき。将来有望の高校生ボクサーだ。高校3年間でインターハイどころか、ベスト4を逃したこともない。将来、チャンピオンベルトをるのは確実だと言われていた。高校を卒業すれば、ジムに入所してプロに……なんて未来を誰もが想像していた。

 しかし、彼が選んだのは大学への進学だった。その選択は疑問が残るものではあったが、まだ大学でボクシングを続けるのだろう、と思っていた。実際に彼の進学する大学にはボクシング部があったからだ。

 そして、卒業式の今日。彼は、自身のSNSである発表をした。それは、もうボクシングはしない、という発表だった。

 この発表は、またたく間に広がりネットニュースにもなった。当然、学校の教師も驚愕きょうがくし、番場にそのことについて何度も尋ねているのだろう。

 廊下で立ち止まっていた番場は、気だるそうに頭を軽くふると、

「もう、行っていいですか? この後、友達と遊びに行くんで」

「いいわけないだろ! 何故だ? きちんと理由を説明されないと納得できんぞ!」

「……まぁ、先生にはよくしてもらったし、話してもいいか」

 番場は、窓の外を見る。まるで、この場にはいない誰かを見るかのように。

「今年のインターハイの地区予選。それが、俺が教師を目指そうと思った日です」

「……地区予選?」

 番場が臨んだ高校最後のインターハイ。結果は、番場の優勝だった。地区予選なんて通過して当然と言っても過言ではないものだ。

 教師は、頭をひねる。地区予選で何かあったとするのなら……、

「決勝で何かあったのか?」

 番場の未来を左右する出来事があるとすれば、大舞台の決勝だろう。

 だが、番場の答えは違った。

「いえ、1回戦の小林こばやし……って奴との試合です」

 教師はさらに頭をひねる。今年の地区予選、それも1回戦で番場が苦戦した記憶はないのだが……。

「その試合は、俺の勝ちでした。TKOです。正直言って、あいつは俺以外と当たっても1回戦負けだったと思います」

「そんなに弱かったのか?」

「はい。でもあいつは最後まで立ち上がりました。それが例え、負けが確実でも」

 番場は、視線を窓の外から足元へと移した。

「で、あいつとの試合が終わって、部活のメンバーとだべってた時です。あいつが俺らの近くを通ったんです。その時、誰だったかは忘れましたが、小林に向かって『あんな立ち上がらなくても負けって分かってたのにみっともないな』ってバカにしたんです」

「……」

「その時です。あいつは、『確かにみっともないかもしれない。でも、番場君に勝てなくても前の自分よりは強くなっていると思うんだ。その一歩が、僕を強くしてくれると思うから』って言ったんです。その言葉を聞いて、周りの奴らは笑ってました。でも、俺は恥ずかしかった。俺だったら、立ち上がれなかったから。あいつは、俺より強かった。でも、あいつは笑われたことが恥ずかしかったのか、そそくさと立ち去って行った。その時、思ったんです。あいつみたいな奴の支えになりたい……って。だから、俺は教師になろうって思ったんです」

 教師は、何も言えなかった。お金の問題とか別にやりたいことができたとかなら、プロの道を閉ざさずに何か別の道を示すことができたかもしれない。

 でも、番場は違う。きっと、彼は自分で見出した道に特別な意味を抱いている。そして、知ってしまった。自分より強い存在を。そんな強い人がバカにされている現実も。

 その現実を変えるには、ただ強いだけではどうしようもないのだ。

 話し終わったのか、番場は教師に「それじゃあ」とだけ言うと、背を向けて歩き出す。

「……頑張れよ」

 その小さなつぶやきが番場に届いたのか、彼は一瞬立ち止まると、何もすることなく再び歩き出した。

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その一歩が きと @kito72

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