第18話 夏休み
8月。
大学の夏休みは長い。社会に出る前、青春時代最後の余暇を過ごせと、脅迫にも似た大学の意図すら感じる。
もっとも、僕は大学を4年で卒業して、社会に出ることを拒否して大学院に転がり込んだ。そしてうっかり博士課程までコマを進めてしまって、進むも地獄、引くも地獄のデッドロック状態に陥っているところだ。
週に何コマも講義のある学部生と違って、大学院生は、はっきり言って夏休みだろうが普段とそう変わりわない。確かに講義がない分、教授の講義の補助をしたり学部生のサポートをしたりなどの雑用は減る。しかし仕事量の減少以上にモチベーションの下落が大きいので(暑いし)全体的なパフォーマンスはプラスマイナスでマイナスとなる。
僕に至っては普段のモチベーションが限りなくゼロに近いので、最早夏休みの僕といえば廃人同然である。六畳一間に寝転がって天井のシミを数えるだけの存在と化している。
僕は学部生時代から、この夏休みという期間が苦手だ。バイトにいそしむなり、サークル活動に精を出すなりすればいいところ、僕は何をするでもなく、何ができるでもなく、そのへんに転がっている。床に寝転がって、床と一体化し、どこまでも沈み込んでいって底を着いたところで、これではイカン! と底を蹴ってわずかに浮上し、結局たいして浮上しないまま再び沈んでいく。海底の環境に適応してしまった深海魚が浅瀬では生きられないように、夏休みの僕は暗い海の底を這いずっている。
「忍野さんはどうしているかな」
忍野七海さん。
壁一枚隔てて隣に住んでいる女子大生。この壁は意外と厚くて、壁越しにはなんの気配も感じられない。
実家に帰省しているだろうか、それとも友人と旅行にでも行っているだろうか。少なくとも僕よりは健康で文化的な大学生の夏を謳歌しているに違いない。
先月、梅田のおすすめのカレー屋を紹介して以来、彼女には何軒かカレー屋を紹介した。大学近くのインドカレー屋、高架下でひっそり営業する喫茶店、近所のスーパーに不定期に現れるキッチンカーのカレーパン。
新しいカレーと出会うたび、彼女は新鮮な驚きをもってそれらを受け入れていた。彼女はカレー屋めぐりにのめり込んでいった。
「先輩! 驚くべきカレー屋を発見しました!」
彼女は新しいカレー屋を見つけるたびに僕に報告した。それらの多くは既にリサーチ済みのカレー屋だったが、ときに僕が知らないような隠れた名店を見つけてくることすらあった。僕は忍野さんの信頼を十分に勝ち得ていたようだった。
そろそろ次の段階に進まなければならない。
そう、僕は目的があって忍野さんに近づいたのだ。カレーをおすそ分けさせるという目的が。仲良くなって終わりではない。激マズカレーを作った忍野さんの料理の腕を矯正し、まともなカレーをおすそ分けさせる。
しかしどうやって忍野さんの料理の腕を改善させるか。それ以前に、現在の忍野さんの料理のスキルについても量る必要がある。忍野さんのおすそ分けを受けてから数ヶ月。忍野さんのカレーづくりの腕は上達しているか、あるいは逆か。それを知らねばならない。だが、どうすればいい? なんの名案も思い浮かばないまま、夏休みに突入してしまった。
夏休みではキャンパスで忍野さんと顔を合わせるということは殆ど無い。彼女からの連絡も最近はめっきり絶えている。このままでは長い休みが明けた頃にはすっかり疎遠になってしまっているのではないか。焦る気持ちと裏腹に、僕は何もできずにゴロゴロしている。
沈んでいく気分が何度目かの底を打った。
「カレーでも作るか」
へばったときはカレーに限る。
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