第12話 ガラムマサラの魔術
昼の学食で思いがけずガラムマサラ片手に忍野さんと相対することになった。
僕がここで学食のカレーにガラムマサラをかけたとして、忍野さんはどう思うだろうか。どんなリアクションが返ってくるか少しシミュレートしてみよう。
僕は心のなかの仮想忍野ver 1.0を呼び出した。
パターン1、めっちゃひく。
(ドン引きです先輩。かばんにいつもスパイスを入れてるってインド人きどりですか?それともネパール人ですか? そもそも備え付けならともかく、持ち込んだ調味料で味変って卑しいとは思いませんか? それと作った方に失礼では? 生協のおばちゃんに謝って! ほら! はやく! はやーく! ……あーあ、先輩がはやく謝らないから私のおいしいおいしいカレーうどんが冷めちゃったじゃないですか。冷めたカレーうどんなんて、さめざめとした先輩程度の価値しかありませんよ)
そこまで言わんでも! よくわからないけど、さめざめとした先輩ってすごく情けないやつみたいだ。
こんな反応が返ってきたら僕はもう立ち直れない。インドに旅立ったカレー愛好会員大槻のあとを追うことになるだろう。
流石にこれは最悪の事態すぎる。もう少し優しめの反応を想定してもいいだろう。
パターン2、ちょっとひく。
(先輩インド人みたいですね)
忍野さんはインド人をなんだと思っているのか。いや、それは僕か。僕は忍野さんをなんだと思っているのか。日々アップデートしている仮想忍野だが依然としてビッグデータが不足している。
パターン3、感心する。
(すごいです! こんな風にカレーの風味を増すことができるんですね。亀の甲より年の功! ですね!)
年の功ではない。
僕はどうやら忍野さんをちょっとへんな子だと思っているらしい。実際ちょっと変わっているとは思うが。
パターン2か3くらいの反応だったらどうとでもなる気がするが果たして……。
「先輩?」
「ああ、いや……これはガラムマサラと言ってですね。カレーにかけるとカレーがよりカレーらしくなるという。……言ってみれば魔法の粉です」
的場の言葉を借りたようなぼんやりした説明になってしまった。さて、忍野さんはどんなリアクションを返してくるか。
「魔法の、粉……!」
目を輝かせていた。
案外この世の問題というのはするりと片付くもので、心配事の9割は実現しない。杞憂杞憂。
「素晴らしいです! そんな素敵なものがあるなんて……!」
色白の頬に少し朱がさしている。
思ったより感動していて逆にこっちがひく。というか心配になる。
「忍野さん、クラブで疲れがとれるサプリとかもらっても飲んじゃいけませんよ」
「……? 私、クラブに行ったことがありません」
「それは重畳。これからも行かないほうがいいでしょう」
僕も行ったことないし、今後行く予定もない。
「まあ、とにかくガラムマサラをかけるとエスニックな感じになって良いんですよ」
僕はそう言いながら自分のカレーにガラムマサラをパラパラとふりかけた。
「ガラムマサラというのは様々なスパイスをミックスしたものなんです。これはそのへんのスーパーに売ってる市販のものですが、個別にスパイスを買って自分好みのガラムマサラを調合してみるのもいいかもしれない」
「……おぉ」
忍野さんは僕がガラムマサラをパラパラするところをまじまじと見つめていた。そんなに見られると照れてしまうが、純真な子どもをペテンにかけているようでなんとなくバツが悪い。別に騙しているわけではないけれど、あまり大げさに感心されてもこまる。
「……あ、忍野さんもちょっとかけてみます?」
「え、いいんでしょうか!?」
「ま、まあうどんに一味唐辛子をかけるくらいの気楽な気分でどうぞ」
このガラムマサラには唐辛子も入ってるしな。僕は小瓶を忍野さんに渡した。
「ありがとうございます! では失礼して……あ」
「どうしました?」
忍野さんはカレーうどんにガラムマサラをかけようとしていた手を止めた。
「もう、うどんがありません」
「……食うのはっや」
忍野さんは意外と早食いの人だった。
「少々お待ち下さい!」
そう言うと忍野さんはどこかへ走っていった。六人がけテーブルに取り残される僕。
数分後、戻ってきた忍野さんはトレイを抱えていた。
「お待たせしました!」
「二杯目……?」
「今度はきつねうどんです!」
「きつね……」
忍野さんはなぜかきつねうどんを買ってきていた。意外と食える側の人間だった。
「もう一度カレーうどんを頼んでも良かったのですが、お財布にちょっぴり不安があったのできつねうどんにしました!」
カレーうどん350円。きつねうどん280円。
「でもそのガラなんとかをかけたらカレーうどんになりますよね!」
「ん? あー確かに言われてみればそうかもしれない」
カレーに必須のスパイスといえば、クミン、コリアンダー、ターメリック。そのうちクミンとコリアンダーはガラムマサラに入っている。ターメリックは香りというより色をつけるために入れる側面もあるので、なくてもそこまで大きな問題にはならない。
僕はガラムマサラをスパイスの香りが物足りないカレーにかける用途でしか使っていなかったが、カレーでないものにかけてカレーにするという用途にも使えなくはないのかもしれない。
「では改めまして……」
忍野さんはガラムマサラをパラパラときつねうどんにかけた。傍から見たら一味唐辛子をかけているようにしかみえないが果たして。
「ちゅるちゅるり……! 先輩! すごいです! これはカレーうどんです! それ以外の何ものでもありません!」
「そ、それは良かった……僕も今度試してみよう」
忍野さんはきつねうどん改めきつねカレーうどんをちゅるちゅるとものすごい勢いで食べていった。
* * *
「先輩はただカレーが好きなだけでなく、カレーについて詳しいのですね」
きつねカレーうどんもあっさり平らげた忍野さん。
「詳しいという程でもないですが」
「いえいえ、私に比べたら……。私もカレーは好きなんですが知識が全然なくて。色々お聞きしてもいいですか?」
「ええ、僕なんかで良ければ、いつでもどうぞ」
「師匠とお呼びしてもいいですか?」
「それはイヤだ」
先輩って呼んでほしい。
「残念です……。あ、もう昼休み終わっちゃいますね。私3限あるのでこれで」
「ああ、そうですか頑張ってください」
「ありがとうございます」
忍野さんは2つになったトレイと丼ぶりを片付け始めた。
「……あ」
「どうしました?」
まさか三杯目に行くのか?
「カレーについてお聞きしたいのに、私、先輩の連絡先を知りません」
忍野さんはスマートフォンを取り出して言った。
「連絡先を交換しましょう!」
* * *
3限の講義へ向かった忍野さんを見送ったあと、僕は一度外の空気を吸いに出た。
先程まで降っていた雨は止み、雲の隙間から光が差し込んでいた。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおお」
僕は両手を、スマホとガラムマサラを、天高く突き上げて叫んだ。
こうして僕は忍野さんの連絡先を手に入れたのである。
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