第5話 カレー異聞録
長い廊下に僕は立っていた。
壁も天井も真っ白な空間で両脇にやはり真っ白な扉がズラッと並んでいる。
リノリウム張りのような、ツルっとした床がてらてらと光っている。
どこにも照明がないのに、なぜか床の光沢がはっきりとわかるほど明るい。
前にも後ろにも廊下は続いていた。
僕は両脇の扉の数を数えながら歩いた。
カツンカツンという足音以外には何も聞こえない。廊下の果ては見えない。廊下の先を見ようとすると頭がぼんやりとするので壁を見ながら歩いた。
数えた扉が500を超えた頃、なにやら中から物音がする扉を見つけた。
扉の先には空間があるはずだという当たり前のことを、いまさら思い至った。
僕はその扉のドアノブに手をかけた。
いくら押しても開かない。ドアノブのあたりを目掛けて蹴りつけたがびくともしない。
引いたら開いた。
六畳ほどの部屋の中に、でかいマリモが浮いていた。
「このマリモ……どこか見覚えが……」
なぜマリモが浮いているのかとか、なぜでかいのかとか、そんなことよりどこかで見たことがある気がする、ということが一番に気になった。
「うーむ」
僕は部屋に入ってマリモに触ったり、匂いをかいだり、なめてみたり、地球儀のようにまわしてみたり、なめまわしてみたりした。
無味無臭のサワサワした緑の球だ。
「マリモ、マリモ、マリモ……はっ!!もしやお前は……マリ美!?」
封じられていた記憶が解き放たれるのを感じた。
マリ美とは長年僕が可愛がっていたマリモである。高校生のとき、敬老会の旅行で北海道に行った祖母から土産としてもらって以来、手塩にかけて育ててきたマリモだ。
大学進学に際して一人暮らしを始めたときも実家から連れてきていたのだ。
マリ美が生きていれば、きっと今頃これくらいの大きさになっていただろう。
そう、マリ美との別れは突然訪れた。
あれは3回生の秋。天皇賞で有り金を溶かした僕は、しこたま酔った状態でカレーを作った。
そこであろうことか僕はマリ美を隠し味としてカレーに投入してしまったのである!
翌朝、空っぽになった水槽を見て全てを理解した僕は号泣した。あとちょっと体調を崩した。
それ以来僕は一度も賭け事をしていない。マリ美は身を挺して僕を賭け事による破滅から救ってくれたのである。そうでなければマリ美が浮かばれない。
しかし身を裂くような悲しみに耐えきれず、僕はマリ美の存在自体を記憶の底に封印してしまっていた。
そのマリ美が、眼の前に浮かんでいる。
「マリ美がいるということは……ここは……あの世……?」
僕は後ずさった。
後ろ手でドアを開け、廊下に転げ出た。
僕は片っ端からドアを開けてまわった。
出口を探して転げ回った。
* * *
ほとんどの部屋は空だった。時折奇妙なものが居た。
それは
ある部屋では「
「おや、お師匠様ではないか。一口どうだ」
「いや結構」
僕は猿に天ポーク元帥カレーを勧められたが、丁重に断って部屋をでた。
「おい悟空、お師匠様は先週食っちまったんじゃあなかったか?」
「む? そうだっけか?」
扉を閉めるとき、そんな話し声が聞こえた。
* * *
またある部屋では、巨大なモニターでモササウルス対ゴジラをキングギドラが観戦していた。
「私はモササウルスに賭けよう。さすがに水中ではゴジラに分が悪い」
「馬鹿め、ゴジラは海に住んでいるんだ。水中でも関係ない。おれはゴジラにベットだ。おい、お前はどっちに賭けんだよ」
「うーん。モササウルスってただの恐竜でしょ? ゴジラには敵わないような……。でもゴジラも巣が海中にあるって言っても、どう見ても形が海に適してないしなあ 」
「はやく決めたまえ。既に戦いは始まっているぞ」
「おめえは相変わらず優柔不断だなあ」
キングギドラの3つある頭がそれぞれどっちが勝つかで議論していた。
「うーん…あ、あなた! モササウルスとゴジラどっちが勝つ方に賭けます?」
答えを決めかねた頭その3は僕に話をふってきた。
「論理的に考えてモササウルスでしょう。水中でゴジラは手も足も出ない」
と頭その1。
「だ〜か〜ら〜。ゴジラはもともと海に住んでるつってんだろ。水中でも苦もなく戦うって。恐竜なんかに負けるかよ」
と頭その2。
「まあ僕だったらゴジラに賭け……」
言いかけて僕は先程再会したマリ美のさわさわを思い出した。
「ハッ……危ない危ない。異常な状況で賭け事はしないというポリシーを反故にするところだった」
僕は急ぎ怪獣賭博の部屋を退室しようとした。
「ちょっとお〜、降りるなんてズルいですよ〜」
「僕は二度と賭け事はしないと誓ったのだ! 失礼するっ! あとモササウルスは恐竜ではなく海棲爬虫類だ!」
扉を閉めるとき、一瞬モササウルスがゴジラの首に食らいつこうとするのが見えた。
* * *
それから僕は東西妖怪大戦争と称して相撲をとる吸血鬼とぬらりひょんを見かけたり、一遍上人とシヴァ神のラップバトルに巻き込まれたり、情事に及ぼうとする武田信玄と上杉謙信を引き剥がしたりしながら出口を求めてさまよった。
あの世とは、地獄とは、こんなに雑多で卑猥な場所であったのかとうんざりしながら僕は歩き回った。
そして遂に、廊下の端に達した。そこにもやはり扉があった。
疲れ果ててもたれ掛かるように扉に寄りかかったが開かない。後ろに倒れるように引いたら開いた。
扉の先は四畳半であった。真っ白な空間に畳が四畳と半分敷かれている。
四畳半の中心には女性が正座していた。
「遅かったですね先輩」
その女性には見覚えがあった。
「あなたは忍野七海さん」
「御名答、私こそ忍野七海です」
肩くらいの長さの黒髪が真っ白な背景を切り取るように浮かんでいる。烏の濡れ羽色。
黒髪の下に形の良い顔があって、ぱっちりとした二重が……あれ、切れ長の……、いやなんかいい感じのお目々があって……。
「お前は誰だ」
「私は忍野七海ではありません。忍野七海であって忍野七海ではないとかではなく。忍野七海ではないし、忍野七海でもない。しかしそれ以外でもないのです」
きれいな黒髪はくっきりと見えるのに、その下にあるはずの顔がよく見えない。
目と鼻の先にあるはずの目と鼻がぼやけてよく見えない。
「つまり先輩は髪フェチということです」
「なに!?なぜ知っている!?」
「先輩はひどいです。ここには私のかわいいお顔があったのに、あなたは私の髪のことしか覚えていない」
忍野七海(?)は両手の人差し指で自分の顔をさして言った。
覚えていない。
たしかに忍野七海の顔を思い出そうとしても、ぼんやりとしか思い出せない。
彼女には引っ越してきたときとカレーをくれたときで、2回ほど会っているはずだが、僕はいつも髪しか見ていなかったのだろうか。
「先輩がそんなだから、こんなふうに私は出てきてしまったのです」
「つまりここは……」
「先輩の精神世界です。私は先輩の思う私です。解像度めちゃ低のワタシなのです」
なるほど……僕は心に隣の女子大生を住まわせているのか。解像度めちゃ低の。
「先輩は私のカレーを食べてまたもや気絶しかかっています」
「なるほど可愛そうな男だ」
「可愛そうなのはつきあわされた的場さんです。ほらこんなにも苦しんでいる」
低解像度忍野さんはそう言うと四畳半の片隅を指さした。
そこには口を押さえて悶絶する的場がいた。
そして逆側の片隅には白目を剥いた「僕」がいた。
「実は先輩がここへ来るのは昨日ぶりで二度目です。一度目は完全に落ちたので忘れてしまったのでしょう。今回は二度目なのでギリギリのところで意識を保っているようです」
そうこう言っていると的場が立ち上がってどこかへ走っていった。
「トイレにでも行ったのでしょう。こういうとき風呂なしトイレなしの下宿部屋というのは大変ですね」
的場はかなり意識を保てているらしい。
「的場さんが戻ってきたら先輩のことを起こしてくれるでしょう。そうすれば私と会ったことを忘れずに意識をとり戻せるはずです」
そう言うと、低解像度忍野さんは立ち上がった。ゆらゆらとこちらに近づいてきて言った。
「私のこと、ちゃんと見てくださいよ」
* * *
「……きろ。……起きろ! しっかりしろ!」
「……うおっ。……うげえ!!」
的場に叩き起こされた僕は意識を取り戻した。しかし口の中に忍野特製カレーが残っていて思いっきり吐き出した。
「うえっ!!きったね」
的場が後ろに飛び退った。
「大丈夫か? ……まったく白目を剥いて泡を吹く人間を初めて見てしまった。夢に見そうだ」
「……おい、的場……」
僕は的場に尋ねた。
「モササウルスとゴジラ、どっちが強いと思う……?」
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