第3話 カレーライスとは対話である

 的場と初めて出会ったのは大学一回生のときだ。僕たちは大学近くのカレー屋で行き逢った。


 彼は言った。


「カレーライスとは対話である」


 その頃、まだカレーに目覚めていなかった(ただのカレー好きにすぎなかった)僕は「何を言うとるんだ、このヒョロガリ眼鏡は」と思った。


 彼とは店が混雑していてたまたま相席したに過ぎなかった。そんな相手が急にカレーがどうだのと話しだしたものだから、僕は困惑を隠せなかった。


 新手の宗教勧誘かなにかだろうかと遠慮なく猜疑の目を向けたというのに、的場はお構いなしで話し続けた。


「カレーライスとは完成してそこにあるのではなく、俺が食らうことによって成立するのだ」

「……どういうことですか?」


 意味ありげに話す男。ついつい好奇心を刺激されてしまった僕は反応を返してしまった。これが僕の人生最大の失策だったのであり、終わりの始まりだったのだと、今は思う。


「例えばこのカツカレー。一見カツカレーとして完成しているように見える。作り手の意思によってカツカレーとして皿に盛られ、今俺にカツカレーとして食われることを待っている」


 僕はその時のカツカレーを鮮明に覚えている。寸分違わぬカツカレーであった。


「しかし俺は、これをカツカレーうどんとして食うことができる」

「な……」


 「なに言ってんだこいつ!?」と言いかけて僕は黙った。先を話すよう促した。


「今、俺はこれをカツカレーうどんとして食うことができる。なぜなら俺のカバンにはスーパーで買ったうどんと麺つゆが入っているからだ。厨房で皿を借りてきて、うどんとめんつゆをいれ、カツカレーからカツとルウを分離してうどんにかけて食ったらどうなる? ……そう、カツカレーライスだったものがカツカレーうどんとなるのだ!!」


 僕は彼の言葉にハッとさせられ……は、しなかった。「なにを馬鹿なことを」という気持ちの方が強かった。


 しかし同時に面白いことを言うやつだ、とも思った。


 つまりはこういうことだろう。


 カレーライスという料理は、食べる側が「カレーライスを食べよう」という意思を持って食べなければカレーライスとして成立できない。カレーライスはカレールウとライスが結合したものではあるが、その結合は不可分ではないからだ。


 食べる側の意思次第でカレールウはライスから引き剥がされ、うどんやパンと結合させられてカレーうどんやカレーパンになりうる。


 実際にそういうことをするとかしないとかの問題ではない。カレーにはそういう性質がある、というのが大事なのだ。


 このカレーの特異性が分かりにくければ、例えば筑前煮を考えてみればいい。


 筑前煮は作り手が筑前煮として作ってしまえば、鍋の中で不可分のものとして完成してしまう。完成した筑前煮から椎茸やたけのこを分離することはできない、あるいは大変困難である。筑前煮が入った鍋から取り出した椎茸は筑前煮そのものだからだ。よって、筑前煮の成立に食べる側の意思(例えば椎茸を筑前煮として食べようとする意思)は必要ない。


 僕は以上のように的場の言葉を解釈した。そしてその解釈が正しいか、その場で彼に尋ねた。


「そのような理解でよろしい。一つ補足するとすれば、カレーライスというのは一口ずつ成立するということだ。スプーンですくうたびに小さなカレーライスが成立しているのである。……このように」


 的場はカレーライスを一匙すくって、スプーンの上に「カレーライスを成立」させた。そして小さなカレーライスを口に運び、幸せを噛みしめるような顔をした。


「カレーライスを食べるというのは対話なのだ。お前をカレーライスとして食ってやるぞ。そういう意思の表示だ。それはカレーライスに対してであり、作り手に対してでもある。俺とカレーライスと作り手、三者のコミュニケーションなんだ」


 そんなことを話しながら、的場はパクパクとカツカレーを平らげていった。

 

 呆気にとられている僕をよそに、彼はぐいっとコップの水を飲み干して言った。


「山田くん。君なら俺の考えを理解してくれると信じていた。法学部のオリエンテーションで初めて話したときから、君は見所があると思っていたんだ」


 僕の名前は山田ではないし、法学部のオリエンテーションに参加していないし(僕は法学部ではないので)、的場とはその日が初対面だった。


 要は的場は人違いをしていたのだ。


 僕と的場が出会ったのは僕らが入学して間もないころだったので、的場は僕のことを知り合ったばかりの山田某と取り違えたというわけだ。


 的場が突然話しかけてきたのはそういうわけだった。


 僕はたまたま山田某と顔が似ていたから的場と巡り合うことになり、そして足を踏み外すこととなった。


 その日以来、僕はしばしば的場のもとを訪れてカレー談義に花を咲かせることになったのだ。それは楽しくもむさ苦しく、面白くも不毛な営みであった。


 大学生としての多くの青春をくだらない言葉遊びに費やしたということを、足を踏み外したと言わずなんと言おうか。


 僕は一人で足を踏み外してなるものかと、高崎や堀川や大槻らを引っ張り込んだので、結果として浪花大学カレー愛好会が誕生することとなった。


 的場が見初めた山田某はカレー愛好会に加わることはなかった。


 なぜ的場が山田某を集いに誘わなかったのかは謎である。


 結局、僕は一度も山田某と会ったことがない。もしかしたら今ここに、的場の荒れ果てた四畳半に居たのは彼だったのかもしれないのだから、人生とはわからない。


 そうならなかったことは山田某にとって恐らくは人生最大の幸福なのだが、そのことは彼の知る由もないことだ。   


* * *


「いつまで突っ立ってるつもりだ。まあ座れよ」


 そう言って、的場は座布団を投げてよこした。僕は床に落ちていた消臭スプレーをふきかけてから座布団にあぐらをかいた。  


「聞いてほしいことがある」

「相談かね」


 結局のところ、僕には真に友人と言えるのはこの男しかいない。


 カレー愛好会などというふざけた大学サークルで、いつまでも踊っていられるのは僕と的場だけだ。いずれ皆、現実と向き合う。現実へと帰っていく。


 砂上の楼閣に最後のときまで残っているのは僕か、彼か。そういう勝負をしている。既にどちらも負けていることに、僕たちは気づかない。

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