第2話 下

?5◆目


 私自身の意志としては今の生活に満足はしているのだが、散歩くらいには出掛けないと健康に良くないと思い、朝の内にウォーキングに出ることにした。

 まだ残暑の残る季節だが、朝は随分と涼しくなった。

 幸いにも天気は良い。爽やかな日射しが地面を照らし、新鮮な空気が皮膚の表面を洗う。

 近所の公園で、例の老人と行き会った。


「おはようございます」

「おはようございます」


 小奇麗なジャージを身に着けていたので、彼もウォーキングの途中なのだろうと考えた。ただ、下半身の一部が破れていて、そこから桃色がかった長い何かを地面に引き摺っている。

 見た所、その桃色の出所は彼の尻の当たりだった。


「それは腸ですか?」

「脱腸なんだ」と言って、老人はにちゃりと笑った。

「痛くないんですか?」

「痛い」

「じゃあどうして引き摺ってるんですか?」

「ズボンの中にしまっておくと歩きにくいだろう」

「でも引き摺ると痛いんじゃないですか」

「痛い」


 痛い、痛い、と言って老人はさめざめと泣き始めた。悪いことをしてしまったかもしれない。

 私はすっかり決まり悪くなってしまい、そそくさとその場を辞した。

 げっげっ、と何処かからつっかえるような笑い声が聴こえた。

 きっとあのカラスだろう。


 部屋に入ると、少女は高熱を出していた。

 顔は土気色で、前歯のごっそり無くなった口を半開きにしている。

 唇も半ば無くなったせいで、口内が丸見えだった。昨日まで鮮やかな赤を晒していた粘膜も今日は心なしか黒ずみ、紫に近い色合いになっていた。


「ああ、ごめん」


 すっかり忘れてたよ、と独り言のように言って、水と解熱剤、それと抗生物質を無理やり飲ませた。傷に沁みたのか身体が大きく跳ね上がったが、それは最初だけだった。


 穴だらけの頬では、零さずに飲ませるのも一苦労だった。先に口に手を付けたのはまずかったかもしれないと自省する。

 根気よく飲ませ終えた後、吐き出されては台無しになるのでしばらく待たざるを得ないと判断し、部屋に持ち込んだ椅子で読み止しの小説をしばらく読んでいた。

 薄い文庫本を四分の一ほど読み進めたあたりで、少女の意識が段々と明瞭になってきたようだった。

「ぶえ」と少女は声を漏らした。吐息のような、げっぷのような声だった。


「おはよう」

「ぶえ」

「ここが何処か分かる? 自分の名前は?」

「ぶえ」


 まだ意識ははっきりしないようだ。

「今、君の顔はこんなだよ」と言って、スマートフォンの画面を差し出した。

 下半分で無事な個所は殆どない自分の顔を視認して、少女はようやく我を取り戻したのだろう、「ふぐう、ふぐう」と嗚咽を漏らした。


「ぼえんなあい。がえびえくああい」


 ごめんなさい、帰してくださいと言ったのだろう。

 私は黙って止血のためのゴムチューブを取り出した。

 右の手首の少し上あたりをきつく縛ると、みるみる手が鬱血を始める。


「2本だけ欠けてるのは、君もすわりが悪いだろう」


 まずはこっち側をにしようね。

 そう言って糸鋸を作業台から取り上げると、少女は泣き叫んだ。

 裂けて傷だらけの舌が見えた。


 やはり、骨は硬い。

 指のような末端なら兎も角、根元に近づくと尚更それを感じずにはいられない。暖房を付けている訳でもないのに、私は汗を掻いていた。


「ぼあああああああああああああああ!」


 鋸刃を引けど引けど、中々厚み方向に進まない。今日はしっかりと止血している為、てらりと白い骨が良く見えた。千切れた血管や筋肉は大部分が縮んだが、そうでない部分はこまめにナイフで削り取った。鋸引き作業の進み具合を視覚から実感として得たかったからだが、こうも進捗が感じられないとかえって焦れてくる。

 ゴリゴリと骨を削るのに疲れを感じたところで、手斧に持ち替えて振り下ろした。骨に刃が食い込む度に、少女の身体が跳ねた。


「ぼええええええええええええええ! ぼえええええええええええええ!」


 疲れると、また糸鋸に持ち替える。

 切断する頃には、すっかり顔が上気し息が上がっていた。

 止血のゴムチューブはしっかりと機能しており、血は殆ど出ていない。

 少女は、奥の方に残った歯をガチガチと噛みあわせていた。

 ここで、ようやく私は自分の過ちに気が付いた。

 無理に骨を切ろうとするから難しいのだ。

 関節を狙えば、もっとすんなり切り落とせるに違いない。

 うーん、としばらく悩んでから決めた。


「折角だから、左右対称にしよう」


 びっ、びっ、と少女は痙攣を続けていて聞いている様子が無かったので、糸鋸の刃で露出した骨をがつんと殴った。


「ぎいいいいいいううううううぶううううううううううう!」


 少女は白目を剥き、泡を吹いた。



muソ繝目


 良く晴れた日で、朝からずっと空が赤い。

 染め抜いたように赤いリビングのカーテンに、あのカラスと思しきシルエットが黒々と映っていた。

 ベランダの手すりに止まっているのだろう。

 カーテンと窓越しに、カラスと目が合ったような錯覚を覚えた。

 私はシルエットから視線を切った。

 窓の向こうで、げっげっと笑い声がした。

 今日は出掛けるのは止めておこう。


 少女の顔面は蒼白だった。

 切り取った手は2本そろえて丁寧に椅子の前、少女の目に付くところに置いてある。俯きがちな少女はその辺りを見ているようでもあるが、覗き込んでみると目は虚ろだった。

 出血の問題は解決しても、体力が持たないのだろう。

 もう長くはないかもしれない。


「じゃあ、今日は足だな」


 ゴムで腿をきつく縛り、右膝をナイフで裂いた。

 肉の薄い箇所だけあって、すぐに白い骨が覗く。

 例によって周りの肉を削いでから、上腿と下腿を繋ぐ腱をゴリゴリ削り、ばつんと切る。


「びゃああああああああああああああああ!」と少女は絶叫した。

「なんだ、まだ元気があるじゃないか」


 元気なのは良い事だ。


「やえへええええええええええええええええあああああ!」


 膝の様に複雑で大きな関節は、腱も多い。ひとつ、ふたつと他の腱も切り、流石に血と油でナイフが滑りそうになってきたところで、糸鋸に持ち替えた。

 関節の間を割り広げるように歯を入れていく。


「うぶううううううううううううううううううううううううううう!」

「半月板って、本当に月みたいな形してるんだな」


 見てみるかい、と少女の目の前に血塗れのそれを差し出す。

 少女は顔をぐちゃぐちゃにして泣いている。


「べええええええええええええええええ! もうやえべ、がえじてえええええええ!」

「痛い?」

「いばいえすうううううううう!」

「家に帰りたい?」

「がえいあいえすううう!」

「そうか」


 左の膝を切り開いた。


「べああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 脚も、腕の隣に並べて置いてやった。腕はもう所々紫色になっていた。

 リビングに戻ると朝焼けがようやく終わり、夕焼けが始まっていた。



繧?縺?°繧∝?譌・逶ョ


 目覚めは爽やかだったが、空模様がどうも怪しい。

 カーテンは葡萄の腐ったような黒ずんだ紫と、鮮やかな紅色で斑に染まっている。

 窓の外では時折びちゃり、びちゃりと粘性の液体の落ちる音がする。

 カーテンを開ける気は起きなかった。


 手足の無い少女の身体は、出会った時よりも随分と小さくなったように見えた。傷口の盛り上がった肉や千切れた血管はもう半ば壊死してしまったのか、色合いはもう紫色に近い。

 少女の意識はもう殆どなく、呼吸も浅い。

 恐らく、今日が最後だろう。

 私は残った上半身の服と下着を鋏で裂き、丸裸にした。

 日に灼けていない少女の素肌は土くれのような色に変わっていて、かつて全身に満ち満ちていたであろう瑞々しい張りも失われ、ぶよぶよと弛んでいた。

 褐色に色づいた小指の先ほどの乳首を強く摘まんだが、目立った反応は無い。

 そのまま摘まんで引っ張りながら、脇の当たりからナイフで切り込みを入れていく。

 少女はここに至って流石に「ぎいいいいいいい」と声を上げたが、その悲鳴も幾分力ないものだった。

 ぞりぞりとナイフの刃を前後させて黄色い脂肪の層を切り分け、乳腺ごと乳房を切り取った。

 尖った形の乳房を床に投げ捨てた。ブルーシートの上に、べちゃっと肉塊が張り付く。

 幾分厚みを失った胸に残った黄色い脂肪の粒と筋肉の筋が露わになったが、それもすぐ溢れる血で見えなくなった。


「ぎいい、いい」


 焦点のまるで合わない、黄色く濁った瞳で虚空を見据え、力の感じられぬ顎からは吐息のような奇妙な声だけが洩れている。

 溢れる血も、漏れ出す声も、零れて喪われゆく生命力そのものであるのだと、それが枯渇する間際に私は漸く気が付いたのだった。

 可哀想に。

 もう片方の乳房も、同じように丸く切り取ってやった。


「ぎいいいいいいいいいいいいいい」


 その次は、腹だった。

 臍のあたりから切れ目を入れ皮膚に垂直にて突き刺し、淡い陰毛を経て膣口まで一気に裂いた。

 血が溢れる前に、裂け目に手を突っ込む。生暖かな肉の中、手探りで腹をこねくる様にしてやっとそれを見つけ出し、掴みあげた。いくつかの器官が繋がっていたが、目にしてみればすぐに分かった。

 始めて見る子宮は、思っていたよりもずっと小さかった。

 そこで、ふと声が途切れていることに気付き、私は視線を上げた。

 少女は息絶えていた。

 目を見開き、歯を食いしばったその姿勢から、力だけが抜けた格好で。

 腹部の血を拭うと、もうそれ以上は血が出てこない。心臓ももう、止まっている。

 生命のない肉塊は、先ほどよりも一層萎んで見えた。ただ、人の形を半ば失ったオブジェだけがそこにある。

 制服のポケットを漁ると、生徒手帳が出てきた。キタコマツ マリカ。それが少女の名だった。今はもう失われてしまった命の。

 ああ、可哀想に。


 私は手や服に着いた血を拭うのもそこそこに、玄関を出た。

 玄関の外、マンションの廊下は薄赤色の肉襞で覆われ、手すりはそれよりも若干色味と質感の違う、紫がかった管状の臓器じみた何かになっていた。

 気もそぞろに、廊下を歩く。

 足を踏み出すたびに、靴の下が柔らかくたゆんだ。

 エレベータホールに着いた。

 操作盤のボタンはひとつずつが全て唇や剥き出しの口蓋の奥にあり、めいめいが気ままに開閉している。

 指を噛み千切られてはたまらないので、私は踵を返して階段の方に向かった。

「乗らないんですか」と声を掛けてきたのは1階のボタンを覆う口で、その声と血色の悪い萎びた口元には覚えがあった。

 あの老人だった。


「噛んだりなんかしませんよ」とそれは言った。

「脱腸は治ったんですか?」


 はは、と笑って唇が歪んだ。


「全部出ちゃいましたよ。ほら、あそこの手摺りのとこがそう」


 私は無視して、エレベータホールを後にした。

 階段では柔い足元に何度も足をとられかけ、しかし手摺りに捕まる気も起きず、いつもの何倍もの時間を掛けて漸くエントランスホールに辿り着いた。

 自動ドアは触手の絡まった分厚い壁と化していたが、センサーの感知部だったあたりに立つとみっしりと絡まり合った触手は滑らかに解けて、粘膜の擦れる音と共に地面に消えていった。

 マンションの外は変わらぬタイル張りの地面で、私はやっと足元の確かな地面に辿り着いた事に安堵した。

 空はどんよりと小豆色の雲が立ち込めていて、時間帯からして昼間の筈なのだが日光は覗えない。

 辺りに人の気配はなかった。


 目の前には、カラスがいた。

 マンションの廊下と同じような質感の粘膜を纏った、薄紅色のカラスだ。

 斜めに付いた胸元の唇がぱかりと開いて、私に語り掛けてくる。


「お前、もしかしてまだこれが現実だと思っているのか?」


 げっげっ。

 カラスは笑っている。

 私を嘲笑っている。


「お前は無能だ」


「お前は無価値だ」


「現実のお前は、何も結果を残せない」


 私は聞こえないような素振りで脇を通り抜けていく。カラスは嘲笑をそのままに、逃げることなくその場に留まり続ける。

 はやすれ違う、というところで、私はカラスの首に掴みかかった。カラスは抵抗することなく、あっさりと捕まった。

 私は右手で植え込みの中から拳大の石を拾い上げ、そのままカラスの頭部に振り下ろした。

 一度だけではなく、何度も。

 何度も何度も。

 何度も何度も何度も。

 肉と骨の砕ける手応えがあったが、私は殴る手を止めなかった。


「お前は何も成し得ない!」


「お前は何も成し得ない!」


「お前は何も成し得ない!」


 げっげっげっ、と抵抗することなく石で殴り潰されながらカラスは私を嘲笑う。

 分かっている。

 そんな事は分かっている。

 息切れするまで殴り続け、それでも笑いを止めないカラスに辟易し、カラスの身体を思い切り地面に叩き付けた。

 カラスは尚も嘲笑を止めない。


「もしあの娘が幻覚じゃなかったら?」


 もしそうであれば、どんなに良い事か。

 私は地面に唾を吐き、その場を歩み去った。



<了>

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だだちゃ豆(仮) 南沼 @Numa_ebi

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