あさみどりに咲く

泉坂 光輝

あさみどりに咲く


 彼女に出会ったのは、私がまだ六歳のころ。雪のちらつく新年の朝、祖母に手を引かれながら初詣で賑わう伏見稲荷大社ふしみいなりたいしゃを訪れた時だった。

 習字教室を開いていた祖母を「先生」と呼んだのは、洒落た着物を纏った少年で、祖母と親しげに話していたことを覚えている。しかし、一際目を惹いたのは、色鮮やかな花の着物を華奢な身体に纏った少女だった。

 肩にかからない長さで切り揃えられた黒髪と、澄んだ淡い茶色の瞳。人形のように美しく整った容貌で、凛と背筋を伸ばす少女と目が合ったその瞬間、たったそれだけで幼い私は彼女に心を奪われたのだ。

 それから十年近くが経過し、春には高校生となる今でもなお、あの時の少女の姿が脳裏に焼き付いている。


       ○


 花の蕾が膨らむ初春。

 京都室町むろまち。京都随一の呉服問屋街として栄えた室町通を中心とする界隈に、目的の場所である阿佐美あざみという呉服屋はあった。

 縦格子が美しい町屋の店構えを前に、私は静かに立ち止まる。そして大きく息を吐いてから麻色の暖簾を潜ろうとしたその時、目の前の扉はゆっくりと開き、中から淡い灰色の着物に浅緑色の羽織を纏った若い男性が姿を見せた。

「よかったらどうぞ」

 男性はにこりと微笑みながら、私を導くように店の中に戻っていく。それに倣って店内へと入ると、どこからかお香のような優しい香りが漂った。

 店の中は想像よりもずっと広く、清潔感のある白壁に濃いブラウンを基調にした陳列棚が落ち着いた空間を演出している。そこには色鮮やかな反物や着物が並んでいて、私は思わず感嘆の声を漏らした。

「何かお探しものですか?」

 店内を見回していると、先ほどの男性が私に声をかける。

「えっと、探しものというか……」

 振り返ったその瞬間、ふと視線が重なり合った。

 艶やかな癖のない黒髪と淡い茶色の瞳が印象的で、くっきりとした二重瞼の目が瞬くたびに、細く長い睫毛が滑らかな頬に影を落とす。目の前の人物は男性で、線が細いとはいえ見上げるくらいに背も高い。しかし、硝子細工のような淡い瞳はどこかあの少女に似た雰囲気を纏っているようにも感じられる。もしかすると、この男性は少女の兄弟にあたる人物なのかもしれない。

 そう思った時、彼は少し困った様子で眉を寄せた。

「あんまり見られると恥ずかしいんやけど……?」

 紡がれたその言葉に、ようやく自分が男性の顔を見つめていたことに気が付いた。

「すいません、お兄さんに似てる人をちょうど探してて」

「僕に似てる人?」

「多分、阿佐美さんところの娘さんやと思うんですけど」

 不意を突かれたように、彼は大きな目を瞬かせた。

「お兄さん、ここの息子さんですよね」

 確か、私が少女に出会ったあの時も兄らしき少年がいたはずだ。

「君、名前は?」

園部そのべ一華いちかといいます」

「一華ちゃんか……」

 吟味するように、小さな声で私の名前を繰り返す。

「うちは昔から男兄弟二人だけなんやけど」

 そして淡い笑みを浮かべると、春を先取りしたような浅緑色の羽織をふわりと翻し、店の入り口を施錠した。

「その話、詳しく聞かせてもらってもええかな?」

 その瞳には猜疑の色が浮かんでいるのがよく分かった。


 彼の名は阿佐美とおる。古くからこの室町にある老舗呉服屋本家の次男で、年齢は今年で二十四になるそうだ。

 阿佐美の姓を持つ直系の女性は、父方の祖母と母親、あによめだけで、妹と間違えられるような年齢の人物はどこにも存在しない。しかし、地位のある阿佐美の名を利用して他人を貶めようとする人間は少なからずいる。

 それが透さんの言い分だった。

「君はその妹らしき人に何か言われてここに来たん?」

 彼は座敷の端で腰を下ろす。真っ直ぐに向けられた心の内を覗き込むような瞳に、私は息を飲んだ。

「そういうわけではないんですけど……ただ、妹さんに着付けの方法を教えてもらいたくて」

 彼は不思議そうな顔をする。

「まったく話が掴めへんのやけど」

 怪訝な表情を浮かべる透さんに、私は幼いころの伏見稲荷大社での出来事を簡単に説明した。

 あの日、祖母と親しげに話していた少年が老舗呉服屋の息子であることは、祖母自身が教えてくれた。その少年と行動を共にしていたのであれば、両親の隣で佇む少女もまた阿佐美の人間であると思うのは当然のことだろう。

 ただ、私が一方的に憧れを抱いていただけであって、彼女についてはその名前さえも分からない。それでも、ふとした時に浮かぶのはあの凛とした美しい姿で、彼女のように麗しく着物を纏いたい、そう思った私は彼女に会いたい一心でこの呉服屋を訪ねたのだ。

 私の話を聞いて、透さんはゆっくりと問いかける。

「一応確認なんやけど、それって何年くらい前の話?」

「確か、十年くらい前やと思います」

 その瞬間、彼の瞳が僅かに揺れた。何か思い当たる節があったのだろうか。そう思ったものの、続く言葉は意外なものであった。

「……君、園部はつ先生のお孫さんか?」

「え、お祖母ちゃんのことご存知なんですか?」

 驚いて問い返すと、透さんはふっと表情を和らげる。

「やっぱりそうか。僕も小学校卒業するまで、先生の習字教室に通ってたからな」

 彼は着物の裾を払いながらゆるりと立ち上がった。

「まあ、そういうよしみや。着付けの方法は僕が教えたるさかい、その女の子の話は誰にも言わんといてくれる?」

 事実とは異なる不確定で曖昧な情報を他言するなという意味なのだろう。誤った情報は不本意な憶測を生みやすい。

 元より誰かに話すつもりはないのだが、これは願ってもない好機なのかもしれない。

「分かりました。よろしくお願いします」

「こちらこそ」

 そう言って、透さんは柔らかい笑みを浮かべながら私に右手を差し出した。


       ○


 ようやく桜が見ごろを迎えた春霞の空の下、私は浮ついた心を抑えながら約束の時刻ぴったりに呉服屋の暖簾を潜る。店の奥には少しだけ高くなった座敷が広がっていて、そこで春めかしい配色で織られた木綿の反物を巻き上げる透さんが見えた。

「透さん」

 私に気が付いたのか彼は面を上げ、微かに目を細める。

 定休日の静かな店内で、ひっそりと仕事をしていたのだろう。彼の周囲にはいくつかの着物や帯、反物が広げられていた。

「待ってたで。準備はちゃんとできてる?」

 そう、彼は色とりどりの布に囲まれた中で滑らかに立ち上がる。そして頷く私を座敷に招き入れると、広げられた着物の側へと座るように促した。

 私は静かに正座する。

「着付けの練習とはいえ、実際にする前に簡単な知識だけは頭に入れておいた方がええと思うねん。先にさらっと説明するからよう聞いときや」

 彼は数枚の着物を私の前に差し出した。

「まず、着物の仕立ては大まかに三種類。裏地のあるあわせ、裏地のない単衣ひとえ、裏地のない透け感のある薄物うすもの

 一般的に袷は十月から翌年の五月、単衣は六月と九月、薄物は盛夏を目安に着用されているそうだ。また、着物だけでなく帯や帯揚げ、帯締めなどの小物も季節に見合った素材のものを選ぶのがセオリーで、それは気候に合わせて装いを変えるという点では洋服と同じである。

 次に、傍らに置いていた商品目録のような冊子を開く。それを私の前に滑らせると、そこにある着物や帯の種類、その格についてなど、ひとつひとつを端的に説明していく。

 彼の口調は静かで淡々としているものの、身体の底に響くような澄んだ声音が春のそよ風のように心地よく、次第に私を穏やかな世界へと誘うものであった。

「一華ちゃん」

 彼の明瞭な声に、私ははっとして顔を上げた。同時に、自分がうつらうつらとしていたことに気付く。

「大丈夫?」

「すいません……今日が楽しみすぎてあんまり寝られへんかったんです」

 そう申し訳ない気持ちで返答すると、彼は勢いよく吹きだした。

「ごめん、期待を裏切らへん答えやなって思たら我慢できひんくて」

 俯きながら笑いを殺す透さんは、ふるふると小刻みに肩を震わせている。その様子に、私は自身の顔が熱くなっていくのを感じた。

「お恥ずかしい限りです……」

「ええよええよ。初めから難しい話してしもた僕が悪かったわ」

 ひらひらと右手を振りながら、彼は目の前の商品目録をぱたりと閉じる。そして広げられた着物たちを手早く片付けると、次には着物用の衣装鞄を私の前に置いた。

 その中身を確認するようにゆっくりと鞄を開くと、そこにはシンプルなランダムラインの入った水色の着物とマーガレットのような大きな花が描かれた紺色の帯、その他にも生成色の帯揚げや帯締めなど、いくつもの和装小物が詰め込まれていた。

「これって」

「合いそうなサイズの着物を適当に選んできただけやねんけど、練習用に一式あった方がええかな思て。かと言って買い揃えてもらうのも気の毒やろ」

 つまり、着付けに使用する全てを貸し出してくれるということなのだろう。その好意に甘え、彼が選んでくれた着物を使って練習に取り組むこととなった。

 それから、着物の畳み方や衿芯の通し方など、基本的な扱い方を中心に練習を行った。そしてあっという間に一時間が過ぎ、初日のレッスンは終了を迎えた。

 店を後にするころには淡く優しい春の夕焼けは色を変え、少し肌寒い花明かりの夜が訪れる。朧月の浮かぶ暗闇の中、私たちは最寄り駅までの道をゆっくりと歩いていた。

「そういえば、一華ちゃんは着物でやりたいことってあるん?」

 そう、唐突に透さんは私に問いかける。

 その質問に、私はぼんやりとあの少女のことを思い出した。

 色とりどりの洋花をあしらったレトロな振袖ふりそでを纏った少女のように、美しく着飾り堂々と胸を張って歩きたい。それは幼いころからの憧れで、今でも変わらない願望のひとつである。

「あの女の子みたいに綺麗な振袖着て、初詣に行ってみたいとは思います」

「君は、ほんまにその子に憧れてはるんやな」

「お人形さんみたいに綺麗やったから、印象深くて」

 私の言葉に彼はくすりと笑った。その瞬間、妙に恥ずかしくなって私は言葉を上書きするようにしてはぐらかす。

「あとは着物でカフェに行って、甘いものが食べたいです」

「それもええな。一通りできるようになったら、一緒にお茶しにいこか」

 そう言って、透さんは花明かりの下で微笑んだ。


 それから、透さんとのレッスンはおおよそ二週間に一度の頻度で進められた。

 素人同然の私にも分かるように丁寧に説明を加えながら、彼はひとつひとつの工程をゆっくりと教えてくれる。それは基本的なことから手本にも載っていないような小さなポイントまで様々で、回数を重ねるごとに自身の着物姿が美しくなっていくことを実感していた。

 透さんは不思議なひとだった。

 阿佐美の次男と言えば、長男を凌ぐカリスマ性で家督を継ぐに最も相応しいと囁かれるほどの人物である。ゆえに、初めて会った時は、住む世界すらも違う少し近寄りがたい人物であるのだと想像していた。しかし、そんな地位や名誉を鼻にかけることは一切せず、むしろ他愛のない言葉を交わすことが好きで、誰とでも親しくなれるような人懐っこさを印象づける男性だった。

 時々見せる悪戯っぽい表情も、意外とぶっきらぼうな言葉遣いも、それに反して見せる優しい心も、春風が攫うような奔放さも、その全てが輝いて見えるほどに、いつからか彼と過ごす時間がとても大切なものになっていた。

 やがて桜は散って、紫陽花の盛りが過ぎ、祭りの喧騒も消え、向日葵が首を垂れ始めたころ。次の約束を目前に彼からメッセージが届く。

 開いてみると、そこには次の約束を見送らせてほしいという旨が記されていた。どうしても外せない仕事ができたというのが理由らしい。

 もとより、多忙なスケジュールの合間を縫って都合をつけてもらっていたのだ。私に彼を咎める理由はない。

 ――また連絡する。

 その言葉を最後に彼とのやり取りは途絶え、どこかもの寂しいまま晩夏が過ぎた。


 彼と会わなくなってから輝いていたはずの日々は色褪せ、私は何か大切なものを失ってしまったような心地で毎日を過ごしていた。それでも彼に教わったことの全てを忘れてしまわないように、何度も何度も練習を繰り返した。

 しかし、寂しさは衣を重ねるように幾重にも募り、心を重くさせる。次第にその煩わしさから逃れるように、私は着物を纏うことから距離を置いた。


       ○


 間もなく秋は深まり、山が粧を増した紅葉の時分。

 前触れもなく彼からの着信があったのは、長雨の続く日曜日の朝だった。

 用件は至ってシンプルで、本日の午後からレッスンを再開するというものである。ただ、指定された場所はいつもの呉服屋ではなく最寄り駅の改札前で、理由も知らないまま私は約束の時刻に到着するように家を発った。

 改札を出ると、柱の影に佇む男性の姿が目に留まる。降り続く秋雨のせいか、彼はいつもの着物姿ではなく洋服を纏っていた。

「一華ちゃん」

 久しぶりに耳にした声は変わらず穏やかで、自身の表情が自然と綻んでいくのが分かる。

「元気そうでよかった、ちょっと見いひん間に身長伸びた?」

「たった三か月でそんな成長しませんよ」

 さらりと紡がれる冗談に、私は笑いながら返答する。彼もまた安心した様子でけらけらと笑った。

 辿り着いたのは室町にある菓子店で、その店舗の中には甘味を味わうことができる喫茶が併設されている。促されるまま店内へと入り、私たちは中庭を望む座席へと着いた。

「長いこと休みにしてごめんな」

 柔らかい口調で紡がれる謝罪の言葉に、私は首を横に振った。彼は埋め合わせだと言って、私に好きなものを頼むように勧めてくれる。その言葉に甘え、私は栗のほうじ茶パフェを注文した。

 大きな窓の向こう側に広がる濡れた苔の庭はどこか物憂げで、しとしとと降る糸雨が庭木の葉を優しく叩いている。その景色をぼんやりと眺めたあと、右隣に座る透さんに目を向けると、彼は透き通るような瞳でこちらを見つめていた。

「僕と会わへん間も、ちゃんと練習しとった?」

 それは水面を打つ春雨のように優しい声音だった。瞳に映る景色は冷たい秋雨に濡れているはずなのに、彼の纏う雰囲気はどこか温かい春を思わせる。

「毎日ではないですけど」

「そっか、よかった」

「私のことより、透さんはどんな仕事してはったんですか」

 痛いところを突かれた質問に、誤魔化そうと質問を投げ返す。すると彼は最近の出来事を思い返しながら、ふわりと視線を頭上に遊ばせた。

「そうやねぇ。秋物の準備したり、反物作ったりかな。あとはプライベートでも時間が必要やって」

「忙しかったんですね」

 私の言葉に、透さんはまた申し訳なさそうに苦笑した。

 雨の音が強くなる。

「気付いたらもう秋も終わりやな。ちょっと前まで春やなって思ってたのに」

 彼に出会ったのは桜の蕾が膨らみ始めたばかりのころで、初めて着物を纏ったのは春霞が美しい時分であった。しかしその記憶を塗り替えるように四季は巡り、気が付くと季節は反転していた。

「なあ、一華ちゃんは春と秋やったらどっちが好き?」

 唐突に風情を攫うようにしてかけられた質問に、私は首を傾げる。それは万葉集に始まった春秋優劣論といったところだろうか。

 それがどのような意図で紡がれたものなのかは分からない。ただ、職業柄なのか彼が四季を重んじる人であることは間違いなかった。

 私は思考を巡らせる。

 時季に従うのであれば、秋の清かな青空と紅葉の景色には趣がある。

 夜には月が輝きを増して、たとえ霞がかった空であったとしても月の周りだけはどこか別世界のように澄んで見える。それは、手を伸ばせば触れることが出来るのではないかと思えるほどで、月の趣だけで言えばその清らかさに勝るものはないだろう。

 しかし、そんな明るい夜だからこそ時に寂しさを覚え、寒さが増すに従って人恋しい気持ちが募る。たった少し会えないだけで苦しくなり、眠れない夜には悲しい記憶が蘇るのだ。

 そう告げると、彼は満足げにゆっくりと首肯する。

「確かに、秋は日が短くなるし寒さも増すから、心寂しい季節やって感じる人もいるみたいやな」

 それは夏に茂っていた青が緩やかに枯れていくことにも通じるだろう。

「そやから、私は温かい春の方が好きです。透さんと話してると、春の優しさを思い出しますし」

「僕と?」

 透さんは不思議そうに瞳を瞬かせた。

「透さんは光みたいに眩しくて、温かくて、春そのものやなって思うんです」

 そう告げると、彼は少しだけ困った様子で眉をひそめる。

「僕、そんなええもんとちゃうで」

 それでも、阿佐美という老舗呉服屋の跡取りとして育った彼は、揺るがない自信を持って生きてきたのではないだろうか。その強かさは、誰もが抱くような目先の不安や翳りとは無縁だというように彼を明るく輝かせる。

 そしてその明るさは傍にいる人をも優しく照らし出し、春の陽光に包まれるような穏やかな気持ちにさせてくれるのだ。

 春を象徴する霞は、萌える緑や空の青をも淡く染め上げる。そんなあさみどり色の春に、私は光を纏ったような美しい男性を重ね合わせていた。


 それから幾らか他愛のない話を繰り返したあと、導かれるまま彼の自宅へと向かった。門扉を潜りやしきに入ると、彼はおもむろに口を開く。

「実はな、練習は今日で最後にしようか思うねん」

「そう……ですか」

 彼と過ごす時間にはいつか終わりがある。初めから分っていたことなのに、心のどこかで楽しかった時間を手放したくないと思う自分がいる。

 私はそれ以上の言葉を吐けないまま、ただ黙って彼の背中を追いかけながら大きな鏡のある和室へと入った。

 彼が最後に提示したのは、どれだけ上手く着物を纏うことができるようになったのかを確認する最終試験だった。制限時間は三十分。決められた時間の中で自装を行い、その手際や着付けの完成度を評価する。その試験の合格をもってレッスンは終了ということだ。

 開始の合図とともに私は襦袢の襟を持ち、肘からゆっくりと袖を通していく。そして袖口を両脇に引き背中心を合わせると、襟元と背を摘まみ滑らかに衣紋えもんを抜く。次は襦袢の襟に添えるようにして着物を纏い、身頃を重ね腰紐を静かに締めると、おはしょりを整えていく。

 彼から教わった所作を思い出しながら、美しく仕上げる秘訣を思い出しながら、ゆっくりと、彼と過ごすこの一時を噛みしめる。

 彼に会えない寂しさから逃れるために、一度は着物を纏うことから距離を置いてしまったはずだった。それでも練習を重ねたことは身体が覚えていて、手が、指先が、無意識に彼との思い出をなぞっていく。

 あの少女のように美しく着物を纏ってみたい――幼いころから抱いた憧れも、いまなら手が届く場所にある。しかし、紡がれる「合格」という言葉を耳にした途端、どうしてか悲しみは落ち葉のように降り積もり、私の心を圧し潰す。

 それでも、彼はそんな心の翳りなど知らぬというように、無邪気な笑顔で私に祝いの言葉をくれる。それはとても優しく残酷で、でも受け止めなければならない現実だった。

 透さんは柔らかい声で私の名前を呼んだ。

「……ほんまはずっと前から、渡そうと思ってたものがあるんやけど」

 そう言い残して彼は一度部屋を出る。そしてすぐに戻ったかと思うと、手には一枚の着物が抱えられていた。

 差し出されるそれを受け取り、静かに広げたその瞬間、私ははっとして彼の顔を見やった。

「これって、もしかしてあの時の」

 それは、あの少女が纏っていた鮮やかな花一華アネモネが咲く振袖だった。

「この振袖は一華ちゃんに着てもらいたくて」

「でも、なんで透さんがそれを」

 経緯が理解できないまま問い返すと、透さんはほんの少しだけ翳りのある表情を見せた。

「……ずっと前に、兄がいるって話したやろ」

 彼はゆっくりと口を開く。

 阿佐美本家の長男である三つ年上の兄は、良くも悪くも自由奔放な人間であった。まるで親の手の中には収まらないのだというように、与えられた名誉でさえも簡単に棄ててしまうような人で、そんな傍若無人で変わり者の兄に代わり、弟である透さんが家督を継ぐための教育を受けていたそうだ。

「兄はほんまに気ままでな、暇つぶしするみたいにしょっちゅう虐められててん」

 暴言や暴力は日常茶飯事で、それでもよくある男兄弟の喧嘩だからといって咎められることはなく、兄からの嫌がらせは彼が中学を卒業するまで続いたそうだ。

 透さんは目を伏せる。

「それに僕、こんな顔してるやろ。女の子に間違えられることも多かったから、兄には妹として生きた方がいいんちゃうかってよく言われてな。それで、振袖とか女の子の恰好させられることもあってん」

 そこまで聞いてようやく事の真相が見えた。

「つまり、この振袖を着てた女の子は透さんやったってことですか」

 確かめるように問いかけると、彼は苦笑をこぼしながら静かに頷く。

「黙っててごめんな」

 憂いた表情で紡がれる謝罪の言葉に、私は大きく首を横に振った。

「正直、幼少期にあんまりええ思い出はないねん。そやから君があの姿に憧れてうちに来たって知った時、素直に嬉しかったし、あの時の僕にも存在意義があったんやって、ちょっと救われたんやで」

 だからこそ、彼は出会ったばかりの私にも多忙な時間を割いてくれたのだろう。

 その事実を思うと、これ以上その好意に甘え続け、彼の時間を費やすわけにはいかないことに気付く。

「……ずっと大事にします。今まで、ほんまにありがとうございました」

「うん、こちらこそ」

 私がゆっくりと頭を下げると、彼は照れ臭そうに微笑んだ。

「そうや、あとな」

 ふと何かを思い出した様子で彼は両掌を打ち、懐から手紙のようなものを取り出す。

「もし嫌やなかったら、その振袖着てこれに出席してくれへんかな」

 そう言って彼が差し出したのは、紅白の水引で彩られた二つ折りのカードで、開いてみるとその中身は来春に挙行される結婚式の招待状であった。

 驚いて私は彼を見やった。

「僕な、来月に結婚すんねん」

 柔らかい口調で告げられた事実に、私は返す言葉を失った。

 そしてどうしてか無意識に両目からは涙がこぼれ落ちる。

「ちょっと待って、何で泣くん」

「……ちゃうんです。透さんの晴れ姿が見れるって思ったら嬉しくて」

 私は指先であふれる涙を拭いながら取り繕う。

「大袈裟やな。君は僕の大事な教え子やねんから、祝ってほしいって思うのは当然やろ」

 彼は優しい声音で諭しながら、子どもを宥めるように私の頭をふわりと撫でた。

 ――もっと早く君に出会ってればよかった。

 そんな甘い言葉はくれるはずがない。彼にとっての私はただの教え子で、着物に憧れた幼い子どもも同然で、幸せそうに笑う視線の先に立つことはできない。

 いつから、少女への憧れは彼を慕う気持ちに変わってしまったのだろう。

「ほな、暗くなる前にそろそろいこか」

 彼は駅まで送ると言って私とともに家を出る。傘を差していたはずなのに、どうしてか降り続く秋の雨は私の頬を、心を、冷たく濡らし、鮮やかな空を鈍色に塗り潰していく。

 ようやく、私は自身の胸の中に渦巻く感情が恋心であることを知った。

 ゆえに、この心に温かい春は訪れない。


 さりとて季節は巡る。


       ○


 花もひとつに霞むあさみどり色の光の中で、私はひとり鏡の前に立った。

 私には心の支えがある。それは彼が教えてくれた着物を纏うという小さな魔法。

 窓から吹き込む柔らかい春風に包まれながら、私はそばの机へと目を向けた。そこには純白の招待状がある。

 この淡い青春の輝きは、彼からもらったたくさんの思い出とともに心に閉じ込めよう。

 満開の桜のような彼の笑顔を前に、二度と悲しみを抱くことのないように。

 私は窓の外に広がるみどりの空を見上げた。そして凛と背筋を伸ばし、花一華アネモネの咲く着物に袖を通す。


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あさみどりに咲く 泉坂 光輝 @atsuki-ni

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