第33話 もう一度会えますように 願

 左手でキヨシさんのベルトを掴む。


「僕が、殺します」


 視線の先には今も叫び続けている彼女がいる。


 彼女はもう、いつ悪霊になってもおかしくないのに。


 叫び、抗い、求め続けているのが分かってしまう。


「ユウセイ、次が最後だ」


 キヨシさんが静かに、短く僕に告げる。


 それだけで十分だった。


 もう次のチャンスが無いことも、その理由も、優しさも、甘さも、多くのものが伝わってきた。


 キヨシさんは両手を前へと突き出して、彼女と相対している。


 そのままの体勢で、首だけを動かして大きな瞳で僕を見据えていた。


 言葉以上に悠然と問いかけてくる眼をジッと見据え、僕の意思を伝える。


「彼女の首を落とします。近づくまでの援護を、お願いします」

「あいわかった」


 僕の言葉を予見していたように、キヨシさんは即答する。


「ユウセイは彼女の首を切ることだけに集中しろ」

 

 両腕を引き、宙に浮いている楯を僕の傍に操作した。


「二度、いかなる攻撃も此楯が振り払おう」


 まるで意志を持った忠犬のように、白銀の楯はピタリと両脇を護ってくれている。


 それを確認して僕は一直線に目標を見定める。


 藤原ゆう子。


 めいちゃんのお母さん。


 僕の中に流れ込んで来た記憶の中の女性の姿と、正面にいるビーストの姿が重なる。


 ようやく。僕は何も見えていなかった。


 今になって気付く。僕は彼女のことをただの鎮魂対象、ビーストとしてしか見ていなかったんだと。


 彼女の記憶に触れて、彼女の願いに触れて。


 彼女の人生の軌跡を辿って、今ここに立っている。


 僕が触れた彼女の生命は全身を焼かれるほどに熱かった。


 ふと、ずっと解らなかった問いが脳裏をよぎる。


「どうして、悪霊は産まれるのだろう」


 それは、人が死んでも尚、苦しみ願い続けた想いの結果。


 もう、人生が終わるというのなら、楽になってしまえばいいのに。


 それでも苦しみ続けた人がいた結果だ。


 僕にはそれが分からない。


 どうして。


 誰にでもなく、問いかける。




「「どうして、死ぬ瞬間にまで苦しまなくちゃいけないんだろう」」




 僕の声が二重になって、反響する。


 瞬きひとつ。


 一瞬のうちに僕の心は真っ白に染まった。


 何も無い、白い、見慣れない、それでも何故か落ち着く、あたたかく、綺麗な世界。


 そんな世界で、僕の正面に土と煤まみれでボロボロの少年が膝を抱えて座っていた。


 少年の隣には大きく太った黒い猫が重そうな瞼を薄く開いて、少年を守るように座っていた。


 ここがどこなのか、少年が誰なのか、黒猫が何なのか、分からない。


 そのはずなのに。


 直感的に理解した。


 きっと、あのボロボロの少年は、ぼくだ。


 僕は、ぼくに問いかける。


 死神の僕は、人間の形をしているぼくに、問いを投げる。


「人はどうして苦しんで死ぬと思う?成せなかったこと、叶わなかったこと、後悔したこと、どうにもならないことばかりを死ぬ間際に思い出すのはどうして?」


「それが本当に叶えたかった願いだから」


「もう、その願いは叶わないんだよ?そんなことをするなら最期くらい、一番良かったことを思い出して幸せな気持ちでいればいいのに。そうすれば安らかに死ねるのに」


「それは間違ってるよ」


「どうして?」


「その幸せな気持ちは一番大切な気持ちじゃないから」


「一番大切な気持ち?」


「人が最期に抱く気持ちは、きっとその人の人生で1番大切な気持ちなんだよ」


「それが幸せな気持ちじゃないの?」


「そうだとしたら、その人は凄く幸せな人生を送った人なんだと思う」


「皆、そうじゃないの?」


「皆のことなんて分からない。けど、多分、違う」


「そっか、君は違ったもんね」


「うん。ぼくは、悔しくて、悲しくて、ごめんなさいって気持ちしかなかったよ」


 答えてくれるぼくは、今も膝を抱えて頭を下げたまま震えている。


 その姿が娘を亡くし、力無く震えていた彼女の姿と重なる。


「彼女もそうだった。それがとても苦しそうで、可哀想だった。どうにかしてあげたかった。苦しむくらいなら、思い出さなければいいのにって…」


「だけど、きっと、その苦しさは正しいはずだよ」


「苦しんでるのに?」


「どんなに幸せなことがあっても、たった一つの苦しさを越えられないのなら、その苦しさはその人が自分で自分の人生に刻んだ消えない傷。その人が頑張って生きた証、人生そのものだ」


「人生そのもの…」


「だから、その苦しみは間違ってなんかない。沢山泣いて、沢山傷ついた人生は、その人にとって何より正しい。それを可哀想っていうことは、その人を馬鹿にしているのと同じだと思う。どんなに苦しい人生も、美しいはずなのに」


 あぁ、そうだったのか。


「じゃあ、全然可哀想なんかじゃなかったね」


「うん、可哀想な人生なんて一つも無い。だけど、死ぬ時はつい苦しい気持ちで心がいっぱいいっぱいになっちゃうから、皆分からなくなっちゃうんだよ」


 そう言うぼくは、今も苦しんでいた。


「そっか。だったら僕はちゃんと伝えてあげなくちゃね」


 だって、僕は、死神だから。


 僕がするべきことは、人を殺すこと。


 人が死ぬその瞬間にその人を抱きしめてあげること。


 そして、伝えること。


「君の人生は、立派だったよ」と。


 僕の言葉を聞いて、膝を抱えて震えていたぼくはゆっくりと顔を上げた。


 そして、ふっと微笑んだ。


 それを見た黒猫は嬉しそうに「ニャアアーーゴォォ」と低い鳴き声を響かせ、ゆっくりと立ち上がる。


 白の世界が、僕の形に収束していく。


 消えゆく白い世界で、ぼくの影は真っ直ぐに僕を見つめて、言葉を紡いだ。


「ぼくは、守れなかったから。代わりに全部、守ってあげて」


 そう願ったぼくの表情は、さよならを伝えなくてはいけないほど、安らかなものだった。




「いってきます」




 僕は、彼女の元へと走り出していた。


 一拍遅れて、空気が地面から音を伝え、白銀の楯が追走してくる。


 視界の端で、パチパチと白い電撃のような熱量が弾けていた。


 それが自分のオーラだと察した時、僕は自分が全力で走っていないことに気付く。


 筋力とは別のなにか。


 心臓の奥にあるなにかに力を込め、一歩。


 時間が遅れたと思うほどの、倍速駆動。


 そこで理解した。これが本来の僕のオーラなのだと。


 一瞬前までとまるで違う、自分すら見失いそうな世界で、苦しでいる彼女が鮮明に僕を位置付ける。


 彼女の右腕が左上から拒絶するように緩慢に振り下ろされる。


 しかし、それはいつの間にか左側の片方だけになっていた白銀の楯によって受け止められた。


 彼女の震えが見て分かる距離まで近づいた時、彼女の左腕が僕が既に通ってきた道の途中でもう片方の楯に弾かれていたことを視界の隅で視認した。


 彼女の初手の攻防を、僕は認識すらせずに懐まで入り込んでいたのか。


 そうして、1呼吸する間にもう彼女と僕は対話ができるほどの距離に迫っていた。


 両腕が封じられた彼女はどうしようも無いほどに小さく、怯えているように見えた。


 僕は彼女を1人にしないように。


 彼女の生きた証を、届けるために。


 彼女の眼前へと飛び上がる。


 静かな時間だった。


 僕は死神の鎌を振り下ろす。


 三度感じる衝撃はこれまでとは全く別のものだった。


 まるで、今にも壊れてしまいそうな罅だらけのガラスに触れているような感覚。


 その危うい感覚は僕に錯覚させる。


 病室で弱りきっていた藤原ゆう子の頬に優しく手を添えているかのように。


 痛いほどに苦しい熱が伝わる。


 それが、人が死を恐れる恐怖なのだと僕は初めて知った。


 願いを叶えられなかった、彼女の、死への抵抗。


「嫌だ、まだ、死ねない。まだ、死にたくない。こんな人生じゃ、あの子に会えないままじゃ、終われない」


 死を受け入れられない、希望を捨てきれない、母親の強烈な愛情。


 僕は躊躇いなく彼女を抱きしめる。


「大丈夫、もう、大丈夫」


 彼女はきっと自分では自分の人生を受け入れられない。


 だから、僕は彼女に言葉をかける。


「お母さんの思いは、全部、めいちゃんに届いてますよ」


 僕は死を持ってあなたの人生を肯定する。


「あなたの人生は、立派でしたよ」


 彼女の人生が報われるように。


「ぅぁ、あぁ」


 彼女の喉から声にならない声と、嗚咽が僕の胸に響く。


 僕の視界に彼女の最期の記憶が流れだす。




 8月、お盆。




「おかあさん、ほら、このお花!私の麦わら帽子よりおっきいよ!」

「わぁ、ほんとだ。立派なひまわりだね」


 私は少し屈んで、眩しいと感じるほど黄色い向日葵と向かい合う。


 めいが麦わら帽子を頭上に掲げ、背の高いひまわりの花の隣でぴょんぴょんと飛んで比べて見せてくれる。


「えぇーー、わたしの方がりっぱだよー?」

「えぇーー、身長じゃひまわりに負けてるよー?」


 最近のめいはとても負けず嫌いで、私が褒めたものと自分をすぐに比べ始める。


「だって、わたしの方が重いもん!」

「あはははは、それはそうだね」


 女の子としてそれはどうなのとツッコミたくなるけど、それはまだ先でいいかと飲み込み、代わりに笑顔が漏れてしまう。


 ひまわりと体重で勝負しようとするなんて、私の娘は思ったより逞しく育っているのかもしれない。


「それに、来年はわたしの方が高くなってるもん」

「じゃあ、好き嫌いせずに何でも食べなきゃだね」

「何でも食べれるもん!」

「あれー?昨日ごーや残してなかったっけー?」

「あっ、ちがうの!あれは、その、思ったより苦かったから…」

「それは好き嫌いじゃないの?」

「今日は食べれるもん!」


 めいはふくれっ面を強調するようにおでこの上で麦わら帽子を被り直す。


 ぷくっと膨らんだほっぺは日焼けでほんのり赤らんでいた。


 そろそろ帰った方がよさそうだ。


「じゃあがんばってみよっか」

「あー!たのしみだなー!」


 強がるめいの手を握って、小さな歩幅に合わせて歩き出す。


 どこまでも高く青い空の下。


 今日の晩御飯とごーやの話をしながら2人の家へと続く帰り道。


 白く大きな入道雲が並んだ二人を抱きしめていた。




「めい……」




 何かを掴んだように両手を握りしめた彼女の頬に、涙が一つ伝う。


 母娘の思い出が1つの命の幕引きを鮮やかに彩った。


 完全に切り落とされた首から黄色と青と白の煌めきが霧散していく。


 それを見上げる死神の首からは契約の印が解けるように消えていく。


「めいちゃんが、待ってます」


 ユウセイは優しく微笑んだ。

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