終 青藍


 十年前。

 六歳で初めてこの宮を訪れた時のことを、藍は今でも覚えている。

 母を亡くしたばかりで、まだ心の整理も付かない頃。

 元居た皇都から遠く離れたこの辺境の地へ連れて来られ、竣工しゅんこうしたばかりでどこかよそよそしい、この大きな建物に向かって跳ね橋を渡ったのだ。


 おそらく、今日が最後の日。

 相も変わらず、使用人たちは藍の言い付けを従順に守り、一切姿を見せないままに、丁寧な仕事をしてくれた。

 あの双子の少女たちだけは、昨夜のうちに皓皓との別れを済ませていたようだが、それだけだ。

 此処での暮らしは虚しかったが、食事と着物を用意し、ほこり一つなく掃除をしてくれた彼らのお陰で、不便はしなかった。


 これで良い、と思う。

 これから先、この宮がどう扱われることになるかは知らないが、いつか藍よりもっと使用人に愛想良く、彼らを大切にしてくれる主がきっと現れる。


 自室だった部屋を出て、階下へ向かう。

 階段下の大広間で皓皓が待っていた。


「もういいの?」

「ああ」


 元から好きで居た場所ではないので、とくに未練もない。

 感慨が湧かないと言えば嘘になるが、惜しむほどの名残もないというのが本音

だった。


 両開きの扉を、左右一枚ずつ、皓皓と共に押し開く。

 あれ程重かったはずの扉は、二人で押せばすんなりと開いた。


 そして。

 てっきり皇宮からの迎えの者が控えているものとばかり思っていた前庭の光景に、藍は言葉を失った。


 宮に仕える使用人たちが――おそらくその全員が、跳ね橋までの道の両脇にずらりと並び、火の点いた蝋燭をたずさえて立っていた。


 彼らは一言も口を聞かないまま、ただ黙って立っていた。


「藍」


 皓皓が震える声で藍を呼ぶ。


「……行くぞ」


 やっとのことでそれだけ告げ、藍は歩き出した。


 そうだ。初めてこの宮を訪れた時も、使用人たちはこうして花道を作り、幼い主人の到着を歓迎してくれた。

 そんな彼らに向かって「自分の前に姿を現すな」と、命令した日のことは、一生忘れない。


 あの時と同じ道を、今度は反対向きに歩いて行く。

内から外へと。


「藍様!」


 たまり兼ねて叫んだのは、やはり小翡と小翠だった。


「いってらっしゃいませ!」


 大きく手を振る幼い少女たちに、深く頭を下げた大人たちが、皆一様に肩を震わせる。


 「いってきます」と口に出すことは出来なかった。

 ただ無言で彼らに頭を下げる。

 十年間の感謝を込めて。


 跳ね橋の向こうには、皇都からの迎えの車輿しゃよが待っている。

 この跳ね橋を渡ることで、今度こそ本当に、藍は籠の外に出るのだ。


「そういえば、おまえ、『コウ』というのは本当の名前ではないという話だったな」

「ああ、うん」


 何故今そんな話をするのかと、皓皓がいぶかしむような顔で藍を見た。


「これから先、おまえのことを人に紹介する時は皓皓のままでいいのか?」


 気まずさを誤魔化ごまかすように尋ねると、


「いいよ」


 と皓皓は頷いて、


「ああ、でも……」


 と、橋を渡るまでの時間を少しでも先延ばしにしたい藍の気持ちを悟ったのか、足を止めた。


「藍には、教えておくよ。僕の本当の名前」


 本当は駄目なんだけど、と言い置いて、照れ臭そうに言う。


「『セイ』っていうんだ、本当は。

 雀青ジャクセイが、僕の――私の本当の名前」

「……そうか」


 それだけ? と視線が言外に不満を訴えてくる。

 内心では相当驚いていたのだか、理由は教えないことにした。


 『ラン』という名前を付けたのは、父と母だ。

 父は鳳凰が生んだ最初の瑞鳥ずいちょうラン』を思い。

 母は生まれた赤子の目の色を綺麗だと笑って『ラン』と呼んだ。

 そう聞き及んでいる。


 鸞は青い鳥で、青は藍より出でる色だ。


「行こう」


 藍は真っ直ぐ先を見据え、今度こそ躊躇ためらわずに前へと足を踏み出す。

 皓皓と藍、二人の頭上には、青藍の空が広がっていた。




【片羽の鳳凰は青藍の空を恋う】〈終〉

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片羽の鳳凰は青藍の空を恋う 相原罫 @K-Aihara

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