聖域

椿叶

聖域

 お姉ちゃんが電話をしてくるときは、いつも夜の十時を少し過ぎたくらいと決まっている。決してその時間じゃだめだとか、その時間に何かがあるわけではない。その微妙な時間は、お姉ちゃんの性格そのものだと、わたしは思う。


 わたしもお姉ちゃんも仕事が終わって、ご飯をたべてお風呂に入って、少し気持ちを休める頃。十時ぴったりだと待っていたみたいだからと、ほんの少しずらす。いろんなことに気を配って、何でもないような顔をしているくせに、全部それが手に取るように分かる。それがお姉ちゃんの器用なようで不器用なところで、わたしが理解してしまう部分。


『あのさ』


 今日はその電話の時間が、いつもより少しだけ早かった。こういうときは、大抵大事な相談がある。


『彼氏がね、一緒に暮らさないかって、言ってるんだ』

「よかったね。念願叶ったんじゃない」

『そうなんだけど』


 お姉ちゃんが言葉を区切る。息を吸い込むような音が、ノイズ交じりに響いた。


『家のことで相談があるんだ』


 好きなひとと一緒に過ごすこと。それはお姉ちゃんの憧れだったはず。でもそれを素直に喜べないのは、とても大切な理由があるから。


『凛と直接会って話がしたい。今度、こっちに戻ってきてくれないかな』



   ***



 この電車の席は、決して座り心地が良いとは言えない。別の電車ならそんなに悪くはないのは知っているけれど、わたしの家の最寄り駅を通る電車のシートは固くて、ずっと座っているとおしりのあたりが疲れてくる。


 昔こっちに住んでいたときは、そんなに気にならなかった。これが当たり前だと思っていたから。だけどわたしはもう、小さな子どもを卒業している。いろんなことを知るようになったし、これからも知っていくのだと思う。


 座席くらいで大げさかもしれない。だけど、自分は子どもじゃないと言いたくなるのは、家に戻るのが久しぶりだからで、見栄を張りたくなっているからだ。


 高校を卒業して、一人暮らしをするようになってから、一度も家に戻っていない。お姉ちゃんとはたまに電話をするくらいで、お互いに会おうなんて一言も口にしなかった。

 あの家は、特別なのだ。だから戻りたいとも、戻っておいでとも言えないのだ。あの場所は、そういうところだ。


 車内にアナウンスが響く。それはわたしの家の最寄り駅の名前を何回か呼んで、忘れ物をしないようにという注意に変わった。

 電車がホームに滑り込んでから、立ち上がる。トランクケースを棚から降ろして、ゆっくりとホームを眺めた。


 駅の中は改装されていた。今までは殺風景で、どこか薄暗い場所だったのに、今ではステンドグラスや掲示物で飾られている。こんなに変わっているなんて、知らなかった。


「凛」


 それでも、わたしを迎えるお姉ちゃんの様子は、最初に出会ったときと変わらなかった。


「ただいま」


 お姉ちゃんの隣にお父さんはいない。

 わたしのとなりにお母さんはいない。


 大きくなったお姉ちゃんとわたしだけが、向かい合っている。


「おかえり」


 あの時お姉ちゃんがくれた言葉は、「これからよろしくね」だったはず。微笑むお姉ちゃんを見ながら、ぼんやりと昔のことを思い出していた。



   ***



 わたしとお姉ちゃんに、血の繋がりはない。あるのは心の繋がりだけ。


「お姉ちゃん、今日帰りどれくらいなの」

「今日は部活ないから早いかな。四時には帰れるとおもう」

「わかった」



 わたしのお母さんと、お姉ちゃんのお父さんは、何度か離婚を経験している。どうやって出会ったかは知らないけれど、私が小学四年生で、お姉ちゃんが高校一年生のときに、一緒になった。


 お母さんが誰かと結婚するのは三回目だった。今までも何度か違う男のひとと一緒に暮らしたことがあるけれど、その男の人が女の子を連れているのは初めてだった。


 はじめてのお姉ちゃんだった。


「お姉ちゃん」


 わたしはお姉ちゃんに懐いた。お姉ちゃんは優しくて、よく私の頭を撫でてくれた。宿題が分からないと言えば、部活で疲れていても教えてくれたし、退屈だと言えば、時間をとって遊んでくれた。

 お姉ちゃんは、妹が欲しかったと言っていた。わたしが妹になってくれてよかったと、言ってくれた。その時の目は、お母さんよりも、新しいお父さんよりもずっとずっときれいだった。


 お姉ちゃんと喧嘩をしなかったわけじゃない。わたしはまだ幼くて、わがままをいって何度も困らせた。それでもその度に仲直りをして、お互いが伸ばした糸を辿っていった。



 時は流れて、お姉ちゃんは大学生になった。慣れないスーツを着て写真に写っているお姉ちゃんは、高校の制服に包まれていたときよりもずっと大人に見えた。


 家がおかしくなってきたのは、それと丁度同じくらいだった。


 お母さんがわたしに不必要に冷たく当たるのは、離婚の合図。

 帰りが遅くなったときは、誰か男の人に会っている日。


 いつもお母さんは、自分のためにたくさんのお金を使いたがる。ネイル、エステ、あとわたしにはよく分からなかった何か。

 それ自体は悪いことではないけれど、お父さんに言わせてみれば、「全部身の丈に合っていない」もの。どのお父さんも、同じことを言っていた気がする。

 お母さんは、お姉ちゃんが大学に通うのが気に食わないらしかった。学費がかかるとか、そんなことを常にこぼしていた。


 思えば、お母さんは一度もお姉ちゃんに「勉強がんばれ」なんて言わなかった。お姉ちゃんが大学を決めたときからずっと、イライラしていたのだと思う。


「お姉ちゃん、お母さんになんか言われたよね。大丈夫?」


 お母さんがイライラして当たるのが、わたしだけならまだよかった。でもお母さんは、お姉ちゃんに容赦がない。


「ううん、何ともないよ」


 心配かけてごめんね。そう笑うお姉ちゃんの顔は、曇っていた。



 それからしばらくして、お父さんも家を空けることが増えてきた。

 お姉ちゃんも驚いていなかったから、これが初めてではないみたいだった。


 わたしたち、似た者同士だね。


 決して高くはないマンションの部屋で、わたしとお姉ちゃんは二人きりだった。お母さんとお父さんがいない夜は、お互いだけが頼りな気がして、なかなか寝付けなかった。

 お母さんもお父さんも、そろそろ頼れなくなるような気がしていた。


 嫌な予感というものは、当たるらしい。


『もう家には戻りません。私を幸せにしてくれる人と暮らします』


 そんな母のメモ書きと、お父さんの財布から抜き取られたであろうくクシャクシャの現金が、机の上に置かれていた。


 お母さんもお父さんも、出て行ってしまった。電話をしてみたけれど繋がらず、わたしとお姉ちゃんは途方に暮れた。


 お母さんは、何度も男の人と結婚している。だけど、わたしを置いていったのはじめてだった。そしてそれは、お姉ちゃんも一緒だった。


 二人で過ごすには、この部屋は広すぎる。それなのに、少しでも離れるのが怖かった。小さなテーブルの同じ辺に固まるように座り込んで、お互いの手を握った。


 頼りになるのは、お姉ちゃんだけだった。



 私が中学校でぼんやり授業を受けている間に、お姉ちゃんは大学を辞めていた。家に帰ってからそれを知ったわたしは、思わず泣いてしまった。


 お姉ちゃんが大学に行きたかったのは、勉強したいことがあったからだ。でもお姉ちゃんはそれを捨てて、わたしとの生活を選んでくれた。それは本当に嬉しかったけれど、同時に自分の無力さを呪いたくなった。


 お姉ちゃんは働き始めた。家事はわたしがやることにした。


「今日は私がご飯作るよ。いつも悪いよ」

「ううん。お姉ちゃんは先にお風呂入ってていーよ。今日はとびっきりの麻婆豆腐だから」


 家賃とか、保険とか、生活費とか、わたしには分からないことばかりだった。お姉ちゃんはそれをひとつひとつ理解して、どうにかやりくりしようとしていた。

 お姉ちゃんがいろんなことを背負うなら、その負担を少しでも楽にしてあげたかった。


 家計はいつもぎりぎりみたいだった。だけど一緒に囲む食卓とか、何気ない会話とか、そういったものがすごくすごく大切だったから、お金がないことはどうでもよかった。


 お姉ちゃんはお母さんみたいにわたしを捨てない。お父さんたちみたいに、わたしをいい加減にお母さんに預けたりしない。それだけで、十分だった。



 わたしが高校生になって、アルバイトをはじめた。たまにはお姉ちゃんとおいしいケーキやパフェを食べたかったし、遊園地とか、ちょっとした旅行とか、そういったものを夢見てみたかったのだ。

 初めてのバイト代で、お姉ちゃんにケーキをごちそうした。あんなにおいしいケーキは、食べたことがなかった。


 わたしのアルバイトのおかげもあり、少し生活は楽になったらしい。最もお姉ちゃんが真面目に働いて、それが周囲に認められている結果なのだけれども、お互いを支えあえているように思えて、なんだか誇らしかった。


 ちょうどそれくらいの時期に、お姉ちゃんが夜に電話をすることが増えた。話しぶりを聞くと男性のようで、お姉ちゃんが恋をしているのだとすぐに分かった。


 お姉ちゃんなら、きっと幸せな結婚ができる気がする。お母さんみたいに、ずっと理想の誰かを捜し歩くんじゃなくて、目の前にいるひとを大切にできるはず。


 わたし自身、幸せな結婚に憧れがあるらしかった。お姉ちゃんが幸せになる未来を想像して、わたしが幸せになった。


 お姉ちゃんの結婚式の費用作りと題して、こっそりバイトの時間を増やした。学校とのやりくりは大変だったけれど、お姉ちゃんのために働いているのだと思えば、楽しかった。


 ところが、私の夢は粉々に打ち砕かれる。


 お姉ちゃんが、失恋した。

 わたしが部屋で勉強をしていたとき、お姉ちゃんは部屋の隅で電話をしていた。その声が突然小さくなって、途切れた。


 もしかして。そろそろとお姉ちゃんを見上げたとき、お姉ちゃんの頬には大粒の涙が伝っていた。わたしはお姉ちゃんを抱きしめた。それくらいしか、してあげられなかった。


 思えば、お姉ちゃんはその電話のひとのために、電話以外の時間を使っていなかった。遊びに行っていたことも、見たことがない。それでお姉ちゃんは、捨てられてしまったのだと思う。


 お姉ちゃんは、わたしを家にひとりにすることを、すごく嫌がっていた。多分、ありふれた家みたいに、家に帰ったら出迎えてくれるお母さんの代わりになりたかったのだと思う。


 お姉ちゃんが一番大切にしているのは、わたしだ。電話のひとじゃなかった。


 お姉ちゃんの幸せは、わたしがいないと成り立たない。だけど同時に、普通の幸せを奪っていくのも、わたしなのだ。


 はやく、自立しよう。

 高校を卒業したら、この家を出て、働こう。お姉ちゃんに、自分だけを大切にしてもらう時間と場所を作ろう。


 高校一年生の終わり。わたしはそう決めた。「結婚式の費用」は、お姉ちゃんへの誕生日プレゼントにいくらか使って、残りは生活費に放り込んでおいた。



   ***



 久々についたこの家は、私が家に来たときと何も変わっていなかった。本棚の位置も、写真立ての位置も、何も変わってはいない。


「彼氏さん、遊びにきてる?」


 気になっていたことだった。

 ここは、わたしとお姉ちゃんが二人で助け合っている家だった。そこに他の誰かが入りこむことを、二人とも怖がった。そうしたら、そこは二人だけの場所ではなくなるから。


 お母さんとお父さんが出て行ってから、わたしもお姉ちゃんも、友達を家に呼んだことはない。足を踏み入れた数少ない人は、面談にきた担任の先生くらいなものだ。でも、それだけだった。


「ううん。まだ。彼氏の家の方が、何かと都合かが良くて」


 詳しくは聞かない。だけど、やっぱりお姉ちゃんは、ここに誰も入れていないみたいだった。


「同棲したら、どっちかの家は使わなくなるよね」

「うん。それで、相談」


 お姉ちゃんは、わたしの帰る場所がなくなることを心配しているようだった。


「ここ以外に帰る場所はないでしょ。たまに育った家に帰るものいいかなって」


 ここに彼氏と一緒に暮らすことは、考えていないみたいだった。意図的に考えていないのも、分かる。わたしだから、分かる。


「お姉ちゃん。ここで彼氏さんと暮らしたらいいんじゃない?」


 わたしはゆっくりと言葉を選んだ。


 もともと四人で住んでいた家だ。お姉ちゃんと彼氏さんが一緒に住んで、たまにわたしが寝泊まりするくらい、別に困らないはずだ。


 この家は、残しておきたい。お姉ちゃんと支え合った場所を、失いたくない。だけど、お姉ちゃんの幸せはお姉ちゃんの幸せだ。その幸せを、わたしのせいでもう失わせたくない。


「お姉ちゃんは、もっと自分のために何かしてもいいんだよ」


 わたしが家を出るだけでは、お姉ちゃんを解放できなかった。

 幼いわたしは、何もできなかった。そのときのわたしの姿が、いつまでもお姉ちゃんを縛り付けている。だから今度こそ、お姉ちゃんを、ひとりの誰かにしてあげたかった。


「わたし、お姉ちゃんのことがだいすきだよ。だから、お姉ちゃんがすきなひとと一緒に住んで。そしたら、わたし、お姉ちゃんと同じくらい喜べるよ」


 お姉ちゃんはしばらくの間、呆けたようにわたしの顔を見ていた。それから、ゆっくりと部屋を眺めまわす。小さなテーブルやキッチン、玄関の棚にまで丁寧に丁寧に指で触れて、それからやっと頷いた。


 お姉ちゃんの浮かべる優しい表情が、本当に好きだと思った。



   ***



 この家は、聖域ではなくなった。お姉ちゃんは彼氏さんと一緒に暮らして、時折友達も呼んでいるらしい。


 わたしも、たまにこの家に戻ってくる。彼氏さんが無造作に置いた手帳やコップを見ていると、家族ができたようで安心する。


 お姉ちゃんの幸せの形を確かめて、わたしは自分だけの家に戻る。なんだか、やっと本当の姉妹になれたような気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

聖域 椿叶 @kanaukanaudream

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ