第5話 一人でいること、一人になること
「せ、先生、確認ですが、俺たちは毎日学級日誌をこの教室で書いて職員室に持っていくということですね?」
「そうよ? 何か不満な点でもあるの? 東山くん」
「いいえ……」
念のため確認したがやはり幻聴ではなかったらしい。女の子と二人きりになるというのは本来、思春期男子からしたら心から喜ばしいシチュエーションであって幻聴であることを願うようなものではない。不満な点はあるにはあるが、すでに学級委員を引き受けてしまった以上文句を言っているようでは先生から信頼を裏切ることになるし、なにより不満を言うためには今朝のことについて話さなければいけなくなる。さすがに本人がいる前で他言無用という約束を破るわけにはいくまい。
「難しい顔して、やっぱり何か不満があるんじゃないの?」
考え込んでいた俺の顔を先生がのぞき込んでくる。ち、ちょっと顔近すぎません?
「な、なにもないですよ」
「そうだよね、錦織さんみたいな美人さんと二人きりになれるわけだし不満なんかないよね。美人すぎるからって手出しちゃだめだぞー」
「何言ってんすか、そんなことしませんて!」
のぞき込んできた顔を耳元に近づけて囁く先生の言葉を否定しつつ、のけぞって先生から距離をとる。先生はいつも余計な一言が多い。どんなに多感な時期の男子高校生でも、錦織千草には手出しできるわけがないだろ。確かに、教室で美人と二人きりというラブコメ展開は全男子が歓喜するだろう。しかも、美人学級委員という属性ならば、普段『ちょっと男子! しっかり掃除しなさい!」とか厳しいのに二人きりになるとだらしなくなって注意すると『〇〇くんの前ではいいの』と甘えてくるというのがテンプレ。テンプレじゃなくても俺の好みだ、うん。しかしながら、今回は話が違いすぎる。必要最低限の言葉しか発しない、無表情女が甘えてくる世界線を今の彼女からは考えられない。
「よし、東山くんはおっけーだね、錦織さんは?」
「横で鼻の下を長くしている男子と一緒に書かなければいけないという点を除けば、大丈夫です」
「東山くん、言われちゃったねー」
「先生のせいですよ。そんな嬉しそうな顔で言わないでください。あと、別に変なこと考えてないですから」
「ごめんごめん。でも、錦織さんの不満点はすぐ解決できるね。別に二人がいつも一緒に書かなければいけないというわけではないし、分担してやればおっけー!」
それは朗報だ。さっきの言い方だと二人で一緒に書かなければいけないというニュアンスがあったが、分担してできるならそれでいい。なるべく、二人で一緒にいる時間は避けたい。
「なら、私は大丈夫です」
「よし、決まったね。じゃあ、これから毎日よろしくね学級委員さん。早速今日から書いてもらうからどういう分担で書くか話し合ってから帰るようにね。あと、他にも学級委員さんに頼む予定の仕事をプリントにまとめておいたから、目を通しておいてねー」
仕事内容が書かれたプリントを教卓において教室を出ていく清水先生。俺は教壇に立ち、そのプリントを手に取った。A4用紙に『学級委員の仕事一覧』というタイトルで仕事内容がまとめられている。授業開始・終了時の号令や放課後の教室の整理など、中には絶対担任がやったほうがいいものも書かれている。これ絶対先生が仕事量少なくするために俺たちに押し付けてるな……。まあ、これは後で先生と交渉して仕事を減らしてもらえばいいとして、まずは学級日誌の分担を決めないとな。そのためには錦織千草と会話をしなければならないというわけだ。そっと視線を教卓から見て左斜め前の彼女の方に向けると、錦織千草は自分の席で学級日誌の内容を確認している。今朝の件のせいで話しかけづらい……。それにしても、彼女が日誌のページをめくる所作はとても洗練されており、どこぞのお嬢様が優雅に読書をしているようだ。時たま目元に垂れてきた髪をそっと耳にかける仕草はおそらく俺以外の男子の心臓を打ち抜くだろう。
「そんなにじろじろ見ないでもらえる?」
錦織千草の冷え切った声で、ふと我に返る。危ない、容姿だけではただの美人だから、つい見入ってしまった。
「あ、ああ、すまん。学級日誌のことについて話し合おうと思って」
「それなら、私がすべて書くからいいわ。他の学級委員の仕事もすべて私がやるから」
「え? どういうことだよ。先生は分担しろって言ってただろ」
「分担でやってもいいってだけで必ずそうしろとは言われてないわ。だから、無理に二人でやる必要もないでしょう」
「た、確かにそうだけど……」
「なら、私が学級日誌を書くで決まりね。他の仕事も私がやるから、そのプリント私にくれるかしら」
俺に向かって手を差し出す錦織千草。ここでおとなしくプリントを渡せば、錦織千草だけに仕事を任せて俺は何もしなくてよくなる。こんなに関わりづらいやつと仕事をしなくていいわけだし、今朝のことを踏まえると絶対その方がいいに決まっている。ただ、周りから見たら俺が仕事を押し付けているように見えなくもないだろう。それではせっかく推薦してくれた先生の信頼を裏切ることになるし、クラス内での俺の立ち位置も悪くなる。なにより、さっきの自己紹介の時も気になったことだが、やはり彼女の声はどこか物憂げに聞こえる。人を近づけようとしないのにも何か理由があるのではないだろうか。あまり詮索しすぎるのもよくはないが、錦織千草のみに仕事をさせるのは避けたほうがいいだろう。
「どうしてそんなに一人でやろうとするんだ?」
「今までもそうだったから。これからもそうするだけよ」
「去年もか?」
「そうよ、男子の委員は肩書だけ。私がやると言ったらいつも『よろしく』の一つ返事で帰っていったわ。中学校のときもそう。皆、私のことを何でも一人でやる人と思っていたから」
それってただ押し付けられているだけじゃないか、とは言えなかった。それは俺自身の生き方を否定することになるから。優しい東山くんを演じて、どんなに不公平な頼みも断らずに引き受けて。どんなに損をしても表では嫌な顔をせずにやり過ごす。ただ、一つだけ言えるのは俺は自ら選んでこの生き方をしているということ。別につらいとか苦しいとか思ったことはない。けれど、彼女の声を聴いていると一人でいることを自ら選んだとは思えない。一人でいることに苦を感じていなかったらこんな声にはならないだろ。
「だから、あなたもやらなくていい。しかも、先生に学級委員を押し付けられたわけだし別にやりたいわけではないでしょ」
確かにそうだ。俺は別に学級委員をやりたいわけじゃない。しかも、相手は今朝脅迫まがいの約束をさせられた相手だ。けれど、もし錦織千草が自ら孤立しているのではなく孤独になっていたら? 自ら高嶺の薔薇になったのではなく誰かに薔薇にさせられたのならそれほど酷なものはない。なにより一人になることの辛さは俺が一番知っている。
『次は君が誰かを助ける番だよ』
あの娘の声が頭をよぎった。そうだ、小学校を卒業して以来、俺は孤独でいる人を見逃さないと決めたんだったんじゃないか。いつもどこか一線を引いて安全圏にいようとする俺の生き方と矛盾するのはわかっているが小学校のころのあの娘との約束は破れない。
「いや、俺もやるよ仕事」
「どうして? 日本語通じないの?」
「いや、通じるし去年の国語総合の成績も悪くない。あ、古文は除くが」
「今は成績なんかどうでもいいでしょ。なんで私に任せないの? そっちの方があなたは楽でしょ」
そう、確かに俺は楽だ。だけど、仕事を任せられる側、いや、押し付けられる側の気持ちを俺は知っている。
「でも、錦織さんは楽じゃない」
「え?」
彼女が表情を変えたのは今朝、俺との近すぎる距離感に気付いたとき以来だろうか。あの時は少し焦った表情だったが今回はまるで違う。予想していなかった俺の言葉に当惑しているように見える。
「やっぱり仕事は二人で公平にすべきだろ。それに、錦織さんにだけ任せると先生から怒られそうだし」
「そ、そう」
「だから、二人で学級委員の仕事をやる。それでいいな?」
「……」
俺の問いかけに彼女はすぐに答えようとしない。手に持っていた学級日誌を両手で力強く握りしめ、俺の方をじっと見つめてくる。俺が教壇に立っているせいか、上目遣いになっている彼女の視線に薔薇の棘のような鋭利さはなくなっていた。若干目が輝いていたのは彼女の目がそれほどきれいだからだろうか。
「すうぅ……はぁぁー……」
片方の手を胸に当て、一度大きく深呼吸をする錦織千草。
「わかったわ。そこまで言うなら、仕事やらせてあげる」
「よし、決まりだな」
「ただし、私とやる以上、仕事のミスは許さないわ。学級委員の仕事は完ぺきにこなすこと。いいわね?」
一度目元を拭ったあと、俺の方を指差し声高に訴える。その声は少し震えながらも先ほどのような湿っぽさはなく、窓から吹き込む春の風のように軽やかで温かみを感じる。その窓の外を眺めると満開の桜の中、未だ自らを硬い外皮で覆った蕾が今まさにほころび始めていた。
「わかったわかった。それにしても、そんな泣きそうになるほど仕事とられるのが嫌だったのか?」
「別に泣きそうになってないわ。ただ、花粉症で目がかゆかったのよ」
すぐにいつもの表情に戻ったが、声のトーンはそのままだった。今朝のことや先生から学級委員に推薦されるなど初日から参ったが、この感じならなんとか錦織千草と学級委員をやっていけそうだ。しかし、なぜラノベを読んでいるところを見られてはいけなかったか問うことはできなかった。いつか、聞き出すことはできるだろうか。
青春色のボーダーライン 三日月誘那 @isa_nagi
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