最初で最後のファンサ

北野椿

第1話

 箱が多少大きくなっても、ましてやあんな騒ぎがあった後でも、ライブチケット獲得はいつも以上の激戦だった。二十も作ったメールアカウントでようやく一枚だけ手に入れられたチケットは、私の左手の中で既に半券へと姿を変えている。右手に持ったコーラを口に含むと妙に冷たく感じた。背後の壁へと凭れかかってから、ドリンクではなく自分の身体が火照っていることに気づく。身体が会場の熱気に馴染んだせいか、ライブ前の興奮で熱を持っているからなのかはわからない。

 まだ明かりが消されていない会場は全体をよく見渡せた。目の前には、何層もの無数のファンの後ろ姿があり、その先にはこれから彼女たちが立つステージがあった。このファンの最前列は、きっといつものメンツなのだろう。開場と同時に開け放たれたドアから、古参や新規問わず、見知った顔のほどんどはステージへの方と駆け出していた。ライブが始まってしまえば、最前列は戦場だ。ステージとを仕切るポールを必死に掴みながら、後ろから来る人の圧に耐える必要がある。そのうえで、パフォーマンスする彼女たちを応援したり、自分をアピールしたりする。運が良ければ、手を振ってもらったりウィンクして貰ったりと所謂ファンサをしてもらえるし、何より至近距離でパフォーマンスを見ることができる。

 最前列に居られることは正直羨ましい。貧血持ちの私がそこに行こうものなら、きっと倒れて、せっかくのライブに水を差してしまうだろう。元々在宅で応援していた私がライブを見に来るときに決めたのは、体調を崩すような無理をしないことだった。だから、なるべく早く来て、壁付近に見通しの良い場所を見つけて時々休みながら見守るようにしている。

「らるむー!」

 前方から、私が応援してるメンバーを呼ぶ女の子たちの声が聞こえた。時計を見ると、もうすぐ開演時間だった。ステージのざわめきやメンバーを呼ぶ声は、きっと彼女たちに聞こえている。この幕の向こうで、開演を待ち望んでいるはずだ。

 ライブには、誕生日が近いメンバーなど、その回の主役にあたる人が存在することもあって、今回はらるむが主役だった。立ち並ぶファンを見渡すと、私が首に巻いているタオルと同じ柄の人に自然と視線を奪われた。今日はいつもより多い気がする。それもそうか。らるむの卒業公演なのだから。

 会場を照らす明かりがすっと消えると、途端に心許なくなるほどの闇に包まれた。明かりの強さとファンの口数は比例するらしく、先ほどのざわめきが消える。闇に慣れはじめた目は、ステージ上を動く影を捉えた。影の配置で、最初の曲に流れる曲のタイトルは浮かんでも頭の中に音は鳴らない。曲が始まるまでの少しの間、世界は無音になる。

 曲のイントロが流れ出すと、ファンの群れは歓声を上げながらステージへと押し寄せていく。私は動き出しそうになる脚をぴんと伸ばして、ステージに釘付けになった。光に照らされた彼女たちが目に映る。センターには、片腕で顔を隠したらるむが、ゴスロリに身を包んで屈んでいた。間違いない。一曲目はらるむの歌いだしから始まる、長いことライブで歌われていないデビュー曲だ。

 あと一小節だ。一小節で彼女たちが動き出す。そう思って見つめていると、左端の暗がりから、薄く光が漏れた。ドアが開いて、誰かが会場へと飛び込んできた。その人物は、ステージの明かりに辛うじて照らされるところまで来ると、ただステージを見据えて、肩掛けバックの中から何かを取り出した。ジョッと嫌な音が鳴ったと思うと、男が手にした筒が燃え出した。発炎筒だ。それに気づいたファンの何人かが振り返り、小さく悲鳴を上げた。ステージからでもその炎はよく見えるのだろう。歌いだしのはずのらるむが腕を下ろす。いつも不敵な笑みを浮かべる綺麗なその顔は、恐怖で強張っている。

 男はなにか大声で叫んでから、発炎筒を投げ、肩掛けバッグの中身を地面に投げた。とても鈍い音がする。脳裏に過ったのは、ひと月前の爆破予告だった。あの犯人はもう捕まったと告知があったはずだ。駆け付けたスタッフが、ステージに向かって走り出そうとする男を捉えようとする。バッグは置かれたままだ。唖然と立ち尽くす人をかき分けて、私はバッグへと近づいた。中身を開くと、消炎筒に照らされて数字が見えた。00:03:15, 14, 13……。数字は刻々と減っている。私の隣に立っていた男性が、ひっと声を上げた。

 人垣の中から男が叫ぶ声が、次いで「放すなよ!」と叫ぶ別の男の人の声がいくつか聞こえた。私は声の聞こえた方を見つめて、それからステージへと目をやった。立ち上がったらるむが、泣き出した他のメンバーの肩を抱いている。怯える瞳が、男を見て、それから発炎筒で照らされた私と目が合う。

 考えるよりも先に、私は抱えるようにバッグを持つとドアの向こうへと走り出した。

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最初で最後のファンサ 北野椿 @kitanotsubaki

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