僕が女神を手に入れるまで

鏡りへい

恋を成就させる方法

 文化祭の準備をしているときだった。僕は看板の文字を書く担当になったので、机に向かって画用紙に一文字ずつレタリングをしていた。

「一緒にやってもいい?」

 女生徒の声だった。顔を上げると、級友の川島さんが微笑んでいた。

 僕は曖昧に頷く――という、消極的な反応しかできなかった。川島さんには仕事がないのか、僕を手伝っていていいのか、と問いたい気持ちと、現にこうして手伝おうとしてくれているのだから余計なことは尋かずに素直に歓迎すればいいのだ、という気持ちが綯い交ぜになった結果だった。

「うちのほう、人数多かったから。私、こっち手伝ったほうが効率的かなと思って」

 と川島さんは言った。尋いていないのに聞きたかったことを教えてくれる。なんて聡明で親切で気が利いて、でも嫌みなところがなくて完璧な人なんだろう。

 しかも可愛い。さっきまでは何とも思っていなかったけど、今この瞬間の川島さんはどんなアイドルよりも女優さんよりも可愛い。いや、光り輝いていて女神だ。天の岩戸から顔を出す天照大神だ。僕の心は一瞬にして、川島さんの圧倒的な魅力に焼き尽くされた。

「…………す」

 下書きの済んだ紙を一枚渡しながら、僕は「お願いします」と言ったつもりだった。でも声が小さいので聞き取れなかったかもしれない。

 川島さんはその紙を微笑んで受け取り、僕の隣の席に座ると机をくっつけて「借りるね」と僕の絵の具を一緒に使って色づけを始めた。僕は彼女に近いほうの腕に焼けるような熱さを覚えた。


 家に帰ると僕は早速活動を始めた。SNSに新しいアカウントを一つ作り、川島さんを連想させる作り話を思いつくたび書き込んだ。固有名詞はイニシャルにして、わかる人にはわかるような書き方で。

『T高二年の女生徒R.Kが教師Fと職員用の駐車場で話しているのを見かけた。今月二回目』

 教師Fは英語の藤野先生をモデルにしている。若くて爽やかで、特に女生徒に人気のある男性教諭だ。ただし彼の左手薬指には結婚指輪がある。

『R.Kと教師Fが渡り廊下で立ち話しているのを見た。今日は英語はなかったのに』

『教師FとR.Kは図書室の本に手紙を挟む方法でやりとりをしているらしい。窓際の低い棚にある百科事典』

『教師Fが運転する車の後部座席にR.Kらしき人物が乗っているのを、H神社前で信号待ちしているときに見かけた』

 川島さんが教室で他の生徒と会話しているときにはさり気なく注意を払った。どうやら川島さんの家は母子家庭で、でもご母堂のパートナーが数年前から同居しており、籍は入っていないものの実質父親代わりらしい。

『R.Kは同居している母親の彼氏との関係で悩んでいる』

『R.Kは同居している母親の彼氏に極めて不本意な関係を強いられている』

『R.Kは同居している母親の彼氏の子どもを妊娠・中絶したことがある』

『R.Kは母親の彼氏との関係を信頼する教師Fに相談するうちに、Fとも深い仲に発展してしまった』


 僕はこのSNSのアドレスを、主に二年生が使う女子トイレに人知れず侵入して、内側の壁に落書きした。

 反応が現れるのは予想よりも早かった。翌日、何人かの女生徒がひそひそしていたなと思うと、一週間後にはクラス全体が川島さんから距離を置くようになった。

 加えて英語の授業で藤野先生が入室したときの空気の重さと言ったらなかった。敵意や軽蔑の籠もった眼差しを向ける者もある。これにはさすがに罪の意識を覚えた。藤野先生には去年、マラソン大会で転んで怪我をしたときに負ぶってもらった恩がある。

 藤野先生は当初、どうしてそういう反応をさせるのかわからず戸惑ったり笑ったりしていた。じきに話が生徒から教職員に伝わったのだろう、段々と表情が暗くなり、窶れ、欠勤するようになり、やがて休職した。

 川島さんも似たようなものだった。戸惑い、焦り、弁明し、理解されないのがわかると諦めて下を向くようになった。

 一部の馬鹿な奴らを除いて同級生のほとんどは川島さんをいじめたりからかったりはしなかった。むしろ同情していたと思う。

 川島さんが「あの投稿は全部嘘なの」と主張すれば「そうなんだ、信じるよ」と神妙な顔つきで答えた。誰も川島さんを否定せず、投稿内容についての話題も避けた。ただ、それまでにはなかった緊張感が壁を作り、その壁に囲まれて川島さんは孤立した。


 二年生が終わる頃には川島さんは教室の影のような存在になっていた。いつも一人で俯き、長い髪を垂らして周囲から顔を隠している。

 前から決めていたホワイトデーの日、僕は一人で駐輪場に向かうところの川島さんをつかまえた。呼び止める勇気はなかったので、無言で隣に並んだだけだけれど。

 いつもは他人と目を合わせようとしない川島さんが、いくらか驚いた様子で僕のほうを見た。

「これ」

 と僕は用意していたプレゼントを突き出した。その際、勢い余って軽く彼女の腕にぶつかってしまった。

「ああ、ごめんなさい」

 気持ちが高ぶっていた僕は、普段にはない大げさな動きと声を発した。その様子にか、川島さんはふっと笑った。

「……何? バレンタイン、あげなかったけど」

 弱々しいものの案外気さくな口調にほっとする。

「お礼です。文化祭のとき、手伝ってくれたから」

 川島さんはいくらかぽかんとした後、思い出したように「ああ」と小さく漏らした。

「お礼なんて……いいのに」

「あの、違います。お礼だけじゃなくて……その」

 感情が先走ってうまく言葉にできない僕を川島さんは待ってくれた。

「好きです」

 やっとそれだけ言えた。

 同時に僕は下を向いてしまい、そのまま顔を上げられなかった。短いような長いような沈黙があった。

「……私でいいの?」

 嬉しいよりも戸惑うような声だった。事態が飲み込めないという雰囲気。

 僕はどう振る舞っていいかわからず、とにかくもう一押しした。

「はい、大好きです。世界で一番、川島さんが素敵で可愛いと思っています。できたらでいいんですけど、付き合ってください」

 返事はなかった。十秒ほど経っただろうか。僕は顔を上げた。自信があったわけではない。でも久しぶりに正面から見た川島さんは、いつかと同じように微笑んでいた。

「……ありがとう」

 言いながら川島さんは目を擦った。涙ぐんでいると気づいて慌てる。

「だだだ大丈夫ですか」

「うん」

 川島さんは泣きながら笑った。涙がぽろぽろこぼれ、しゃくりあげるのかと思えば笑い声になり、その声が「あははは」と大きくなった。

 笑い声と涙が止まったとき、彼女は雨上がりの空のようにすっきりした瞳で僕を見て、

「はい、お願いします」

 と言った。

 こうして僕は女神を手に入れた。

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