20.生地の仕込みと迫られる選択




『『万物の神よ。シュテルン・アハト・クーヘンの名において、汝の御子の力を地上へ降りさせたまえ』』


 きらきら。


 右手の内側が熱を帯びる。左手を添えて、意識をさらに集中。呪文の続きを詠唱する。


『『汝の光を、熱に変え、体内に蓄える許可を求める』』


 ぼっ。

 ごぉおおおおお。


 ――勢いよく、パン窯に炎が生まれる。


 ということで本日は仕込みの日である。

 明日は臨時休業で教会へあんぱんとクリームパンを納入するので、今日の作業はそれぞれの生地をつくり発酵させることと、あんこを炊くこと。

 そして明日の早朝にカスタードクリームを炊き、2種類のパンを仕上げる。

 これが大まかなスケジュールだ。


 あんこ炊きはハイトさんとシュバルツにお願いすることにしている。

 何回かやってもらっているし問題はないだろう。

 ふたりもエプロンをつけて準備万端だ。


「今日はひたすら炊いてもらえればオッケーなので、がんばってください」


 ハイトさんがわずかに頷いてくれる。


 さて、わたしはメインのパン生地担当だ。

 泡立てた石鹸でしっかりと手を洗い、作業テーブルの隅にある大きな秤の上にボウルを載せる。足元の紙袋からスコップで小麦粉を掬って量る。

 小麦粉の上に砂糖も量って軽く混ぜておく。


 また別のボウルには花酵母をちぎって入れた。ぬるま湯を入れてよーく溶かす。そして、小麦粉の入ったボウルへと注ぎ、合わせていく。

 途中で溶いて漉した卵液も投入。


 全体がなじんできたら、塩と、小さくちぎったバターも入れていく。

 体重をパン生地に載せながら、ひたすら、こねる。


 こね。こね。こね。


 卵やバターの入ったパン生地は、最初は少しべたつくけれど、まとまってくるとだんだんしっとりとしてくる。艶も出てきて、なめらかな見た目と手触りに変わってくるのだ。


「……よし!」


 同じ作業で、でもちょっと材料のバランスを変えて、もう1種類の生地を仕込む。

 どちらも冷蔵でじっくりと発酵させて旨みをたっぷり引き出そう。


 どうか美味しく食べてもらえますように。

 願うのはそれだけだ。


 炎魔法を活かせる職業を探して辿り着いたのがパン屋だった。

 元々食べることが好きだったからっていうのもあるけれど、子どもの頃から、自分のつくったものを「美味しい」って言ってもらえるのがすっごくうれしかったんだよね。


 うん。今回の大量注文でそんな初心を思い出せたような気がする。

 話を持ってきてくれたランさんには感謝しかない。


 やさしい甘い香りが隣から立ち昇ってくる。


「あんこもばっちりです」


 シュバルツが木べらを手に、鼻を鳴らした。


「ありがとうございます! これで明日は成功間違いなしです」


 よーし、準備万端だ。

 今日は早めに寝て、明日の朝に備えよう。



「あれ……?」


 まだまだ外は真っ暗。

 それでも、普段ならこの時間にはお店の外に、契約した養鶏農家さんから産みたて卵が置かれている筈なのだ。

 今回はいつもよりも多めに注文したから、卵を集めるのに時間がかかって遅れているのかな?


「うーん」


 困ったなー。

 産みたて卵を使ってカスタードクリームを炊こうと思っているから、作業ができないぞ。

 陽が昇る頃に届けば間に合うし、とりあえずあんぱんだけ仕上げていこうかな。


 厨房に入るとハイトさんもシュバルツも紺色のエプロンでスタンバイしてくれている。


「おはようございます。卵がまだ届いていないので、先にあんぱんをつくりますね」

「承知した」


 一次発酵の完了したあんぱん用の生地にたまったガスを抜いて、カードで切って重さを揃えていく。

 ひとつずつ丸めて休ませつつ、クリームパン用の生地を確認。

 あんぱん用の生地を先につくっておいてよかった。

 クリームパン用の生地はまだ過発酵まで余裕がある。発酵が進みすぎてしまうと、パン生地は使えなくなってしまう。発酵を抑えるために、冷蔵庫のなかでもさらに温度の低い場所に移動しておこう。


「シュバルツ、あんこを冷蔵庫から出してもらっていいですか」

「かしこまりました」


 あんこを掬う用のヘラを出そうと食器棚に手をかけたときだった。

 お店のベルがけたたましく鳴る。


「あっ。卵が届いたみたいなんで行ってきますね!」


 ふたりを置いてお店の方へ小走り。

 扉の外には養鶏農家さんが立っていた。細身のおじさんで、このひととはなんとかふつうに会話ができる。

 というか、基本的にいつもお店の前に卵だけ置いていってくれるから滅多に顔を合わせない。顔を合わせても、会話が苦手らしくてそそくさと立ち去ってしまうのだ。


「おはようございます。ありがとうございます」


 ところが。

 養鶏農家さんの顔は真っ青で、唇がわなわなと震えている。ただでさえ細身なのに消えてしまいそうになっている。


「……どうかされたんですか?」

「シュテルンさん、申し訳ありません!」


 勢いよく養鶏農家さんが謝ってくる。

 え? え?

 まったく事情が飲み込めない。


「ここに向かう途中で三輪車になにかがぶつかって、卵がすべて割れてしまったんです……っ!」

「えっ」


 養鶏農家さんのいつも乗っている荷物載せ自転車。

 後部の黄色いかごをおそるおそる覗くと、大量の卵が割れてぐちゃぐちゃになっている。


 まさか。そんな。

 血の気が一気に引いていく。


「大丈夫か」


 意識を失いかけたわたしを支えてくれたのはハイトさんだった。

 なんとか我に返って、足元に力を入れる。

 こんなところで倒れる訳にはいかない。だけど。どうしよう。


 ハイトさんが黄色いかごに目線を向けて、事情を察してくれる。


「……ふむ」


 次の瞬間、ハイトさんの口から飛び出したのは衝撃的な言葉だった。


「余がそれらを復元してやろうか?」


 ——魔王の力で。


 シュバルツと交わした言葉が脳裏に蘇る。


『我が君の力を行使すればいいものを』

『いやいや、それはルール違反でしょう』


 だけど小豆を買った帰りは送ってもらった。

 今はそれを遙かに上回るピンチに陥っている。

 だけど安易に魔王の力を使わせる訳にはいかない。


 だけど。だけど。頭のなかで繰り返す。


 心臓がばくばくいっている。胸の辺りは熱いのに指先はどんどん冷えていく。


 あんぱんともう1種類、という依頼なんだ。

 特別なパン。

 それを楽しみに待ってくれているひとがいる。


 どうしよう。

 どうすれば。


 黄色いかごのなかはひどい有様だ。


「貴様がそれを望むなら、たちまちに叶えてやるが? 余の名において、貴様の欲するものは何でも叶えてやろう」

「……」


 わたしは動揺している養鶏農家さんと、能面のハイトさんの顔を順番に見つめた。


 ——決めた。


 拳をしっかりと握りしめて、決意を揺らがせないように、ハイトさんに向かう。


「ハイトさん、」

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