8.薔薇の花束を抱えた男
「甘い……甘すぎる」
できあがった試作パンをかじって、眉をひそめた。
パンも甘い。
あんこも甘い。
こうなると足し算ではなくてかけ算になってしまい、へたなお菓子より甘いものになってしまう。これでは元々やわらかなお菓子パンを知らないエアトベーレのひとたちには受け入れてもらえないだろう。
そう考えるとハード系のパンは分かりやすかった。
基本の生地が一緒で、そこからかたちを変えていけばいいんだから。大まかにいえば小さければ火通りがいいから皮がパリッとするし、大きければ中身はふんわりと焼き上がる。
だけどわたしが今つくろうとしているのは、あんこと相性がいい、やわらかなパン生地なのだ。
構造がそもそも違う、んだろうな。うーん。
卵とバターをたっぷり使ったパン生地だと、くどすぎる。下手したら胃もたれしてしまうかもしれない。
卵白は控えめで卵黄を多めにしたら、ふんわりしているけれど主張が強い。あんこより卵の風味が勝ってしまう。
卵もバターも決して安くないので、試作しまくるのは無理だ。
「根本的になにかを見直さないと、商品化ができない……」
うぅ……。行き詰まってしまった。こういうときは問題から離れた方がいい。
わたしはエプロンを外して、お店の外に出る。
ぶらぶらとあてもなく散歩するのも、いつ以来だろう。
パン屋を開店してから毎日忙しくて休日だってまともに休んでいなかったし、休んだとしても倒れるようにして寝ているだけだった。
商店街からさらに歩いて行くと高い柵に囲まれた建物が視界に入ってきた。
「こんなところに学校があったなんて気づかなかった!」
3階建てでクリーム色の校舎と、紺色の屋根の細長い教会。
この国の教育制度は、5歳からの9年間が無償の義務教育と決められている。
学校の敷地内には国教である、万物神を崇拝するリヒト教の教会もある。リヒト教の考えでは、この世界のすべてのものには万物神の魂が散らばって存在しているという。
熱心な教徒は足繁く礼拝に通っているものの、わたしはそこまで熱心ではない。せいぜい誕生祭でお祝いするくらいだ。
とはいえ、教会のひとたちも、まさかこの街に封印済みの魔王がいると知ったらびっくりするだろうな……。
そして特に収穫もないままお店の前に戻ってくると、誰かが立っていた。
「あのっ、すみません。今日はお休みなんですが」
「……君がこの店の店主?」
振り向いた相手を見て思わず息を呑む。
わたしと年頃の近そうな、細身の青年だ。
薄茶色の髪に、光が透けて。
対照的に、深さを湛えているのは、見たことのない真紅色をした瞳。切れ長のくっきり二重。
血色のよさそうな、薄い唇。
グレーのベストに白いシャツ。質のよさそうなトラウザーパンツ、先の尖った革靴は光り輝いている。
その手にはなんと、赤い薔薇の花束!
すれ違うひとたちがちらちらとこちらへ視線を向けてくる。
一言で形容するなら、まさしく『イケメン』。そんな男性が何故、【一番星】の前で薔薇の花束を抱えているんだ……?
「は、はい。そうですけど」
「シュテルン・アハト・クーヘン?」
「どうしてわたしの名前を」
「僕の名前はラン。今日は挨拶だけ。また、あらためて君に会いに来るよ」
ランはわたしに近づいて、頬にキスしてきた。
「!」
「これはお近づきの印に。じゃあね」
薔薇の花束を押しつけるように渡すとランは颯爽と去って行く。
あ、だめ、だ。
動悸が激しくなる。吐きそうになって膝をつく。
男のひとに、触られてしまった。
これはちょっと無理。意識が……。
*
*
*
「貴様は倒れるのが趣味なのか?」
「……ハイトさん」
目が覚めるとわたしは部屋のベッドに寝かされていた。
「どうして」
どうして、の後にいろいろ続けたかったけれど、体が熱っぽくて口がまわらない。
「我が君はあなたと契約しているので、身体に異変があれば察知することができます。また、扉の鍵を開けるなど造作もないことです。また、ここまで運んでやったのは他ならぬ我が君です。感謝しなさい」
ありがとう、シュバルツ。
だいたい知りたいことは分かった。
「薔薇の花束は店に置いてきた。いったい、何があった」
「……知らない男のひとがわたしの名前を知っていて、キスしてきました」
「なんと!」
「ほう。そやつを燃やしてこればいいか?」
「燃やそうとしないでください。そもそもあなたは封印されている筈でしょう」
「しかし、あの薔薇は……否、なんでもない」
ハイトさんが何故だか言い淀む。
うーん。一体、何者だったんだろう。
「だけど、ありがとうございます。運んでくださって、助かりました」
「ふん」
「ところで厨房にあるパンは試作なのでしょう? 食べてもいいですよね?」
「いいですけど、ものすごく甘いですよ」
言い終わる前にシュバルツはお店へ降りて行った。
部屋には無表情のハイトさんだけが残る。
き、気まずい……。
「あの、ハイトさんも食べてきていいですよ」
「……ふむ。貴様は男性が厭だと言っていたか。まぁ、ここにいて雇い主の気分を害してはならないな」
「へ?」
その独特な言い回しを解釈すると、気を遣ってくれている、ということ?
「何を笑っている」
「すみません。でも、ハイトさんは男性という概念ではないから、大丈夫みたいです」
「可笑しな人間め。まぁいい」
ハイトさんが部屋を出て行く。
男性であって、男性ではない。魔王だもんね。シュバルツもそうだけど、人間の物差しなんかで測っちゃいけない。
そもそも、女性か男性かっていう対極しか存在しない訳じゃないんだから。
「……対極?」
自分の思考につまずいて思わずひとりごちる。
相反するもの。
それは時として、お互いを引き立ててくれる。
たとえば、砂糖の甘さの対極は……?
「塩!」
ぜんざいに塩昆布がほしいって思っていたのにどうして考えつかなかったのか。
跳ねるように飛び起きてお店へダッシュで駆け下りる。エプロンを掴んで勢いよく着ると、あんぱんを食べていたシュバルツがぎょっとして目を丸くした。
ハイトさんが冷ややかな視線を向けてくる。
「貴様、そんなすぐに起き上がってもいいのか」
「思いついたんです。甘さを引き締めるには、塩!」
「元気になったようだな」
「ありがとうございます。ハイトさんのおかげです」
ざぶざぶと手を洗って、早速、小麦粉を計量する。
同時進行であんこも炊き直しだ。
前回と違うのは、砂糖を少しだけ水あめに置き換えること。強すぎる甘さは抑えられて、艶が出る。
卵をほどほどに配合したパン生地を捏ねて、発酵させて。
分割して休ませた生地を左の掌の上で広げて、粗熱の取れたあんこ玉を乗せる。左手の指を動かしながら生地をあんこ玉に沿わせつつまわして、右手の指できれいに生地の端をまとめてつまむ。意識するのは生地の厚み。
こうすることで、生地の真ん中にあんこが包まれている状態になるのだ。
「ほぅ。あんこはそうやって包むのですね。さながら奇術のよう」
そして、また、発酵。
ひとまわりふっくら大きくなったパン生地に、艶を出すため溶き卵を塗る。
その上から、ほのかにピンク色のとっておき岩塩をぱらり。
この塩味がパンの味をまとめて、バランスをとってくれるにちがいない。
「完成です!」
今度こそ艶々と黄金に輝くあんぱんの焼き上がりだ……!
「ほほぅ」
「火傷しないように気をつけてお召し上がりください」
ふたりにも焼きたてのあんぱんを手渡す。
半分に割ると、なかから甘い湯気が立ち昇る。よし、ちょうど真ん中にあんこを包めた。
はふはふ。ぱく。
……これだ。この味だ。
やさしい甘さ。ほっとする甘さ。
パンもやわらかくてしっとりしている。時々塩味が効いている、最高のあんぱんだ。
シュバルツをちらりと見遣ると、またもやうっとりとしていた。
「餅なんかより、ずっとずっと、こちらの方が美味しいではないですか……さっきの試作も美味でしたが、こちらの方が甘さは控えめなのに美味しく感じられます……時々口直しのように塩味が現れるのも秀逸……」
「ふっふっふ」
わたしはあんぱんを高く掲げてみせる。
「これは明後日からの新商品です。あんこのパン、あんぱんです」
いろいろとあったけれど、あんぱん、完成だ!
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