これは推し活とは、言いたくない

西風

推し活ってなんだろう?

 窓に薄っすらと映る自分の顔を見ていた。

 辛気臭い顔をしている。

 外の景色をぼんやり眺めていたはずが、ふと窓ガラスに映る自分と目が合ってしまい、それからはどんなに視点をずらしても、自分の顔が気になってしまい、外の景色を楽しめなくなってしまった。

 せっかく気晴らしにと思って、来たことが無い店に入ったにも関わらず、少しだけ憂鬱になってしまった。それも自分の顔を見て憂鬱になるなんて、どうかしている。


 静かな店に、ピアノソロが響いている。舞が座っているカウンターの上辺りと、舞から見て左側の後ろの天井にスピーカーが設置されている。小さな音なのに、はっきりと聞こえる。良い音だった。良いスピーカーを使っているのだろうか。スピーカーに興味は無いが、なんとなくそんなことを考えてしまった。


 それにしても、なんて言い訳をされるとは思わなかった。なんでも推し活と言えばマイルドになると思っているのだろうかと、昨夜の出来事を思い出してイライラしてくる。

 舞は、コースターに置かれたワイングラスを一息で空けた。


 —


 会社から戻る時、いつも行く駅前のバルは人が多く、あまり静かに飲める感じはしなかった。仕方なく、八幡宮方面へ向かう通りを歩きながら、入れる店を探していた。そこで、小さな雑居ビルの三階にあるこの店の看板を見つけ、思い出したのだ。

 駅の改札を入る前に置いてあるフリーペーパーに、出される食事と何よりオススメされるお酒が美味しいという女性のコメントと共に、この看板が掲載されていたことを。

 思い出したので、せっかくならとエレベーターで三階に上がった。

 木製のドアに黒い看板がかかっている。真鍮製だろうか。可愛らしいデザインだった。ドアを開けようとノブに手をかけたところ、どうやら内開きのドアのようだった。

 珍しい。そう思った。

 ちょっとだけ驚きながらドアを開けると、左から奥へ向かうカウンターに男性が二人、少しだけ席を空けて座っている。真正面には全面が大きな窓になっており、外の景色が見える。右側にはソファとテーブルがいくつかあり、少数ならグループでも来れるのだろう。

 カウンターに立っていたマスターに、こちらへどうぞと指されたのが、一番奥の窓際。舞が座っているこの席だったのだ。

 置かれていたメニューを見ると、普段飲んでいる赤ワインがハウスボトルであったので、グラスでオーダーした。それを、生ハムとチーズの付き出しを摘みながら飲んでいたのだ。


 —


「何かお作りしましょうか?」


 飲み干したグラスを置いたところで、カウンターの内側に立つマスターから声をかけられた。


「そうですね。それでは、今度はハイボールを」

「ウイスキーのお好みはありますか?」

「えっと……あまりウイスキーには詳しくないのでお任せします」

「そうでしたか……それではせっかくなので、こちらを御覧ください」


 そう言ってマスターはメニューを手に取り、あるページを開いた。

 ウイスキーについての解説が、丁寧なイラストと写真と共に書かれている。


「ウイスキーについての薀蓄を語りだしたらキリが無いのですが、よく居酒屋とかダイニングバーで出されているのはこの辺りです」


 指で示しながらいくつか銘柄を教えてくれる。

 国産の角は私でも知っている。デュワーズ、ジャックダニエル、ジムビーム、メーカーズマーク。この辺りも聞いたことがある気がする。メニューで名前を見たことがある、と言ったほうが良いのか。なんとなく味が違うのはわかるが、あまりハイボールの違いを意識して飲んだことはない気がする。


「なんとなく見覚えがあるかな、って名前ですね」

「そうですか。あまりウイスキーについてじゃ気にされない女性は多いですからね」

「そうですよね。なんとなく、『私もハイボールで』なんて感じで頼むことが多い気がします」

「そういうご注文する方は多いですよね。特に人と行かれる場合はそうなりがちですが、せっかくなので、もしよろしければ、いつもとは少しだけ違うハイボールを楽しんでみませんか?」


 マスターからの提案だった。こうやってお酒をプッシュしていくのだろうか。


「そうですね……今日は飲みたいなと思っていたので、是非お願いします。ただ、あまり高すぎないものでお願いしますね」


 笑いながらそうお願いしてみた。


「かしこまりました。この辺りのウイスキーよりはちょっとだけ高いのですが、タリスカーというウイスキーを使って、普段お飲みになるハイボールとは少しだけ趣向の違うものをお作りできればと思います」


 そう言いながらチラッとボトルを見せて、目の前でハイボールを作り始めた。綺麗な手付きで作られていくハイボール。栓を抜かれたガラス瓶の炭酸が注がれる度に、キラキラと光っている。

 ハイボールなんて、簡単。ウイスキーに炭酸を入れるだけ。そう思っていたが、ひとつひとつの動作が洗練されていて、とてつもなく丁寧に作られているのがわかった。

 そしてマドラーの先を振るようにして混ぜた後、氷を持ち上げて上下させる。ほんの少ししか動かしていないが、これで混ざるのだろうか。


 そう思っていたところで、驚くようなことをし始めた。

 グラスの上で、ミルを使って胡椒を挽き始めたのだ。


「えっ」


 つい声が出てしまった。胡椒の香りが漂ってくる。

 マスターはニヤリとしながらこちらにグラスを差し出した。


「タリスカーのハイボールです。タリスカーに胡椒というのは、よくあるレシピなんですが、普段お飲みになるものとは一味違いますよ。お口に合わなければ、他の物をお作りしますので、仰ってくださいね」


 グラスを受け取り、少しだけ匂いを嗅ごうとしたが、その前に香りが漂ってくる。胡椒。そして口に含むと、広がる磯の香り。


 海。海だった。


「すごい、海ですね。それと、なんと言って良いのかな。胡椒の香りはもちろんするし、燻製っぽい感じですかね。驚きました。すごく癖があるんですけど、胡椒のピリッとしたのが、味を引き締めてて、飲みやすく感じます」

「それは良かったです。お気に召しましたか?」

「ええ。今までに無い刺激でした」

「今回はハイボールということで刺激を足すために胡椒を入れましたが、指二本分の水で割るトゥワイスアップも香りの広がり方がマイルドになって、また違ったお酒のように感じますので、そちらもオススメです。少しだけアルコールは強くなりますけどね」

「これ飲み終わったら頼んでみようかな」


 笑顔で頷くマスター。他の席にも軽く目線をやって、グラスの空きを確かめたのだろう。すぐにまたこちらを向いた。


「タリスカーは実は私が最も良く飲むウイスキーなんです。この磯臭さが、塩辛い海の水を想像させるんですよね。広く、そして荒々しい海。磯に打ち付ける波が弾けて、波飛沫が飛んでくる。そんなイメージが浮かぶんです」

「あ、わかります。私も飲んだ瞬間、海だって思っちゃいました」


 マスターは少しだけ破顔して、舞に言った。


「恥ずかしい話なんですが、いろいろ辛いなと思った時にこれを飲むと元気が出るんです。荒々しい海のイメージ。叩きつけられる波。もっと頑張れよ、まだまだいけるぞと、力強く荒っぽく、それでもどこか優しい、そんな応援をされている気がして、また頑張ろうかなと思えるんです」


 マスターの話を聞きながら口に含むタリスカーは、確かに海のイメージを伝えてきた。ただ、胡椒と炭酸の刺激が、どこか爽やかに、どこか楽しげに、そしてどこかに隠されている力強さが、舞の心を少しだけ慰めた。


「マスター。突然変なこと聞いて申し訳ないんですけど、推し活って知ってますか?」

「推し活ですか? 自分の好きなアイドルとかを応援するために、いろいろ買ったり、応援に行ったりするアレですか?」

「そうです。それです」

「たしか芥川賞を取った小説に、推しがテーマのものがありましたよね。読んではいないのですが」

「その推し活なんですが……男の人にとって、キャバクラでお金を使うのは、推し活なんですかね?」

「推し活を、キャバクラで、ですか?」

「ええ。正確にはキャバクラの女の子に、です。その子がナンバーワンになるように飲みに行くのは、なんだって言われたんです」


 マスターは困った顔をしている。

 舞自身もこれを言われた時には戸惑ったのだ。たった一人だけど、男性が自分と同じような反応をしていることに勇気づけられた気がした。


「推し活の正確な定義がわからないのですが、自分の好きな人や物、コトを応援するというのが推し活だと仮定するならば、推し活と言って差し支えないとは思いますが……ただ、違和感は拭えないですね」


 苦笑しながら話すマスターを見て、舞は、やっぱりそうですよね、と笑った。

 マスターが、あちらの方にも聞いて良いかと、カウンターに座っている他の二人の客を視線で示す。

 一人で静かに飲もうとこの店に入ったのだが、胡椒入りのタリスカーのおかげだろうか。少しだけ元気になった舞は、全く面識の無い人たちに愚痴を零しながら飲むのも悪くないと思い、苦笑しながら、是非にと頷いた。


 一人になった夜、それでも一人ではなくなった、少しだけ騒がしくなりそうな予感のする夜は更けていく。

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