ワンシーン

紀 聡似

ワンシーン


 僕のスマートフォンを揺らしたのは、彼女から「急ですがこれから会えますか?」というメッセージであった。

 彼女というのは僕と同郷で、ふたつみっつ年下の幼なじみのことである。

 彼女とはしばらく連絡は取り合っていなかった。

 しかし僕は、最近の彼女の動向は、知りたくなくても大体は理解できていた。


 今からって本当に急だな・・・僕は少し急いでうどんをすすった。

 古き良き店と言えば、少し都合の良い表現になるが、万年、金の足りていない僕にとっては大変ありがたい店。安価でお腹を温かく満たせるたぬきうどんは、鼻奥に広がる荒節の風味と、明治時代の開店当時から、継ぎ足しで作られている秘伝の醤油だしとやらがふんだんに含まれており、あげ玉の香ばしさも最高で、色んな意味で僕はこの店の常連になっている。

 まだ湯気の勢いがもうもうと保たれていたが、この絶品の汁を飲み干すには時間がなく、早々に今日はお店のおばちゃんに別れを告げた。


 足早に、いや多少の浮かれ気分で膝が軽くなっていたのだろう。それはまるで恋人が僕の家にやって来るかのような錯覚で、胸が高鳴っていた実感があったからだ。しかし、今さら急に何の用なのだろうという、疑問や不安で気が滅入りかけていたのにも違いはなかった。


 サンダルの中に小石が入った。その小石は僕の踵あたりをチクチクと悪戯してきたが、僕は不思議と普段のように立ち止まることもなく、なんにもないような素振りでスタスタと商店街を抜けて、明治から大正期にかけて活躍した文豪の誰かが眠っているという、小さな寺の墓場の裏路地を通って帰った。


 アパートの軋んでいる内階段を二階へ登る時、だいたい思い出されるのは、目下の課題の小論文のことであった。最新の近代建築を学ぶ学生のくせに、近代建築を論じるのには矛盾している貧乏アパートに住んでいる。この老朽している我が城が放つ、古びて白みがかったチョコレートのような香りが、どうにも僕の執筆意欲を萎えさせるのであった。

 それよりも今は、こんな所を通って彼女がやってくるのかという羞恥心が、一方的に踵の痛みを和らげてくれていたのか、部屋に着いた頃にはサンダルの中の小石もなくなっていた。


 僕が帰宅し、ややあって、遠慮がちに戸をタンタンと叩く音が二つした。


 玄関を開けてみると、マスク越しでも分かる、明らかに以前と違っていた美咲が立っていた。こんな古いアパートには不釣り合いな、どこかの高級タワーマンションにでも暮らしているかのような、上品な洋服を着こなしている少女。これが今をときめく若手俳優、そして僕と幼なじみの鳥海美咲なのか・・・。

 すっかり見た目が変わってしまった彼女に対して、僕に降って湧いた嫉妬心のような感情が、胸の真ん中あたりでパンッと弾けて、少し痛んだ。何か自分だけが取り残されてしまっているような、たぶん僕が僕自身を惨めに思って、自分に同情しているのだろう。そんな風に思ってしまっている自分も悔しかったし、大いに情けなくなった。

 僕は美咲を見た一瞬で、自分に嫌気が差してしまったんだ。


 __こんにちは、元気でしたか?

 __ああ、まぁ入る?狭くて汚いところだけど(本来ならお世辞で使う言葉だが)。


 頬を上げて、目を細めて笑うところはテレビCMで見ているのと殆ど同じだったが、地元に居た頃よりも痩せたのか、それとも洗練された女性になったのか。今している小悪魔のようなメイクのせいなのか、彼女の笑顔から、自信に満ちた役者感が溢れていた。いや、僕が勝手にそう思い込んでいるだけなのかも知れないけれど。


 芸能人は、テレビ画面を通して見るのと、実際に会うのとでは顔の見え方が違う、と以前どこかで聞いたことがあった。地元に居た幼なじみの美咲と、テレビや雑誌で見ている彼女が、本当に同一人物なのかという感覚と、実際に目の前にいる女性はあの美咲なのだという現実に、僕の頭の中は少し混乱をしていた。


 彼女は、思ったよりも軽やかに、僕の脇をすり抜けて、部屋の奥の窓際へ向かって行った。

 このあと少し違和感を覚えたのは、十九歳の彼女が僕の脇に残した、全然似合っていない大人びた香水の香りだった。


 __にしても久しぶりだな、いつぶりなんだか。


 冷蔵庫の麦茶を、薄いガラスでできた安物のコップに注ぎ、脚が短く、ガタついている小さなテーブルに置いて、そう言ってから、窓の向こうを眺めている彼女の背中へ差し出した。もちろん気の利いたお茶菓子などありはしない。


 __私が中学を卒業して、東京に出て来たとき以来かな。


 墓場が目下に広がる開けっ放しの窓の外を眺める彼女の後ろ姿から、充実感のような雰囲気が感じられたのと同時に、僕には劣等感という負の意識が重くのしかかった。一体、何の為に今さら僕に会いに来たのか。僕はあとどれくらいの時間を、僕と美咲との人生の落差を痛感させられ続けるのだろうか。

 再会してから早々に、僕は辟易してしまった。



 __この前の映画見たよ。最後は感動して泣いちゃったよ。


 生まれて初めて「映画公開日の初日」にチケットを買って映画館へ観に行った理由は、これが彼女の初主演作だったからである。

 しかし幼なじみが出演するからといって、ただ嬉しかった訳でもないし、決して得意げな気分になっていたこともない。

 この作品は高校時代に好きだった小説が原作であって、昔から映画化を楽しみにしていたからだ。まさかその映画が美咲の初主演作になるとは、全くもって想像もしていなかったが。



 高校生のヒロインは難病を患い、夢も恋愛も半ばでこの世を去るというありがちと言えばありがちな青春物語であった。

 小説の登場人物のキャラクターというのは、読み手のイメージひとつで、ある程度は自由に作れるものだ。僕が当時、この物語を読んでいたときに頭の中で描いていたヒロインのイメージは、偶然だったのか美咲だったのだ。特別に深い意味はなかったが、彼女の見た目のイメージで、勝手に想像を膨らませて小説を読んでいる節があった。



 僕がかけた言葉に反応し、振り向いて、くたびれたクッションの上にストンと正座で座った彼女は、まるで映画のシーンの一コマを見るようで、とても可憐だった。


 __ありがとう。ヒットしてくれて良かった。で、泣いたって、私の演技で泣いたんですか?

 __まぁ演技というよりは、ストーリーがストーリーだし。

 __あ・・・なぁんだ、もっともっと演技を頑張らないとね。


 僕を茶化したあと、照れくさそうにニコリと笑った美咲は、また僕に違和感をもたらした。さっき彼女が痩せたように見えたのには理由があったのだ。彼女の上の歯茎には、控えめな八重歯が左右にあったのだが、それらがきれいに取り除かれて、歯並びもきれいに整えられ、白磁器のように白くなっていた。痩せたというよりも、上唇の膨らみが無くなったせいで、唇自体が薄くなっていた、というのが正解かも知れない。

 だがその違和感が、なにかまたひとつ、そんな美咲を僕から遠く感じてしまったのであった。


 __で、急にどうした。いきなりメッセージが届いて、びっくりしたよ。

 __うん。今度また映画の撮影が始まったの。

 __そうなんだ。じゃあ尚さら今は忙しい時だろうに。時間は大丈夫なの?


(なんだよ。ただ自分の女優業の順調さを自慢しにきただけなのかよ)と、またまた胸がモヤモヤとし出した。僕は学業もバイトも、なにもかもうまくいっていない。うまくいっていないというよりも、満足が足りていないのだ。つまり、実生活になんの充実感も得られていない。

 僕は明らかに美咲の人生に嫉妬をし始めていたのと同時に、こんな卑屈なところを持っているのだと改めて自分を知った。

 しかし、美咲が語り出した内容は、意外にも、そんな僕のモヤモヤなんかは軽く吹き飛ばすものだった。


 __時間は、あまりないです。このあとも撮影でスタジオに戻らないといけないの。じつはマネージャーに本当に無理言って・・・外の車で待ってもらっていて。

 __えっ?それはマズいでしょ!


 慌てて窓の外の通りを見下ろして、首を伸ばしてのぞき込んでみると、一台の乗用車が、墓場の塀の路肩に停まっていた。僕の母親くらいの年齢の、いかにも芸能マネージャーらしき赤いスーツ姿の女性が運転席に居て、いきなり僕と目が合ってしまった。僕は彼女から確実に睨まれていた。僕は慌てて窓から頭を引っ込めた。


 __大丈夫なのかよ?若手急上昇株の女優が、こんなアパートにいるところを、もし週刊誌にでも撮られでもしたら。

 __大丈夫!だから外でマネージャーに見張ってもらっているし、いなかの幼なじみだということも話してあるから。


 美咲は少し眉間にシワをよせ、厳しい目付きをしていたが、こんな真剣な表情ですらも、演技がかって見えてしまい、真の緊迫感が僕には伝わってこなかった。それは美咲が女優であるからこその皮肉というものだ。

 だが、そう見ている自分の心に、白けている自分が存在しているからこそ、そう見えたのかも知れない。


 __じゃあ、とりあえず用件って。新しい映画の撮影がどうしたって?


 急かすように僕がそう問うと、美咲は伏し目がちに左下の方へ視線を落とした。すると直ぐに、僕の目を見てまた照れくさそうにこう言った。


 __今度の映画で、キスシーンがあるんです。


 ドキッとした。その感覚は、僕が直感的に美咲がキスシーンを撮影することに対しての、強烈なヤキモチによる鼓動だったに違いないが、と同時に僕は、美咲に対して幼なじみではなく、ファンとしてでもなく、一人女性として見ていたことを思い出した。

 すると一気に口が渇いていくのを感じたので、グイと麦茶を一口多めに流し込んだ。


 __そうか、でもそれは女優として避けては通れない道だよね。

 __そうですね・・・で、そのシーンの撮影の日が、もうすぐなんです。


 美咲はそう言うと、スッと斜め上方に顔を向けた。視線の先には特別に物も何も無いはず。ただの壁があるに決まっている。でも美咲は、まるでそこに何かあるかのように、大きな目をもっと見開いて、なぞに一点を凝視していた。


 __つまりなにか、そのキスシーンの相手の俳優が気に入らないとか、そういう話?

 __いや、お仕事だから、そんなのはとっくに割り切って、覚悟はしてましたよ。

 __じゃあ、何が一体?


 __私、それがファーストキスになるんです。


 __・・・・・。


 僕は動揺を誤魔化すかの如く、後ろ髪をかきながら、一点を見続けて語る彼女の視線の先を追うように、明らかに何も無い、壁の方を振り返って見た。当然ながら、ただの汚い砂壁だけだったが、そんなことはどうでもよかった。


 __ファーストキスが映画の共演者って・・・どうなんですかね。なんか・・・私が想像していたのとは違うんだよなって。

 __で、でもシーンにもよるんじゃないのか?無理矢理に襲われるようなシーンじゃないんだろ?綺麗で素敵なシーンであれば、それはそれで良いんじゃないのかな。

 __ふーん・・・そうですかね。今回も学生ものの青春映画で、内容はあんまり話せないけど、お相手は若手俳優の素敵な方です。シーンも幻想的で、良いシュチエーションで。


 やはり僕は卑屈になっていた。

「あんまり話せない」と言われれば「ならば話なんか持ちかけるな!」と苛立つ。俳優のお相手が「素敵な方」と言われると、実に不愉快な気持ちになる。だんだん彼女の話がどうでも良くなってきた。


 __それなら良いんじゃないのか。逆に、君が想像していたファーストキスって、どんなものだったの?

 __え?・・・うーん。つまり映画の共演者とか、好きでもない相手とかではなくて、キチンと恋愛をした相手としたかったなぁと。


 そう言ったとき、美咲は僕に一瞬だけ視線を合わせて、直ぐに横に逸らした。ここで僕は、彼女が何をしにやって来たのかが、ようやく分かったような気がした。

 さっきまで卑屈になっていた自分は、もうどこかに行ってしまっていて、美咲が僕に、僕が美咲を想っていたのと同じように、彼女も僕に好意を寄せていてくれていたことを予感した今、よく分からない感情だが、どうやら少し安心をし出したのだった。


 やや沈黙があって・・・

 __仕事、頑張れよ。ずっと応援してるから。何かまた行き詰まったら、メッセージでもなんでもしてきて良いからさ。

 __え?・・・あ、うん。ありがと。


 僕の少し晴れた感情とは逆に、美咲の表情は曇っていた。

 僕は美咲を突き放すことしかできなかった。

 僕らは幼なじみでしょっちゅう一緒に居たけれど、どちらかが好きだとか告白した仲ではない。ただ一緒にいて安心できて、楽しかった有意義な存在。そんな感情同士だったに違いないと自分に言い聞かせていた。

 美咲はこれからの人である。これからもしかしたら将来、大女優に駆け上がっていく存在になるのかも知れない。そんな意識が、僕にこんな自制心を生み出させたのだろう。


 __そろそろ行かないとなぁ・・・マネージャーに怒られちゃうわ。


 家に来た時の笑顔と違って、今のは少し悪戯っぽく笑っていた。

 玄関に立って黒光りする小さな靴を履いた彼女は、数秒ほどドアに向かったまま動きを止めた。そして息をひとつ、ふぅと吹いて、小さな肩を落とした。


 すると急に振り返って、僕の胸元に飛び込んできたのだった。


 僕は驚いたが、ずいぶん前にも同じことがあったので、その時と同じように彼女をギュッと抱きしめてやった。その時は髪の毛が乾いていてパサパサしていたが、今の彼女の髪の毛は、シルクのように艶やかになっていた。

 美咲は僕の胸に顔をグイグイと押し付けてきた。そしてもうひとつ、僕の胸におでこをつけて、はぁっと息を吐いた。

 美咲から妙に生暖かい体温が伝わってきた。


 __私・・・もう大丈夫です。行きますね。

 __あぁ、いつでも連絡するんだぞ。


 パッと美咲は僕から離れたと思ったら、僕の顔も見ずに、春風のように玄関から姿を消していた。

 あの似つかわしくない香水の香りだけを残して。



 __うわっ!美咲のやつ!Tシャツをこんなに汚していきやがって、もう!

 僕の白いTシャツに、彼女のアイライナーやら口紅なんかがベッタリと付いていた。でもなんだか嬉しくて、少しだけ幸せな気分にもなった。


 窓から外を見下ろすと、ちょうど美咲は車に乗り込んだところだったらしく、ドアの閉まる音だけが聞こえただけで、彼女の姿を見ることは叶わなかった。

 だが、彼女のマネージャーらしき女性は、さっき見たときの睨み顔とは、まるで別人のような温和な表情で、僕に軽く会釈をして、直ぐに車を走らせた。




 あれから一年後、美咲はさらに映画やドラマ、CMなどで大活躍する日本を代表する若手女優になっていた。

 僕はなんとか大学を卒業し、決して大きくはない建築デザイン事務所に就職できたが、住まいは未だに、あのボロアパートのままである。

 美咲とは、あれ以降まったく連絡はとっていない。


 僕は今、美咲があの時に話をしていた映画を映画館で見ている。もちろん上映初日のことである。

 もし美咲が僕のもとを訪れなければ、たぶん僕はこの映画を見ていなかったと思う。冷静に彼女のキスシーンなんて見られるはずがなかったからだ。

 でも今は、妙に清々しい気持ちで、彼女のキスシーンを眺めている自分が映画館に居た。



 美咲は憶えていなかったようだ。


 僕が十歳のとき、君が隣に越して来てからは、母子家庭で働きに出ている君のお母さんが帰宅する夜までの間、僕の家でほとんど面倒を見ていた。

 兄弟のない僕はまるで妹でもできたような気分で、よく川に釣りに行ったり、近くの神社へ虫取りに君を連れ回していた。


 僕がちょうど中学校に上がったころ、僕の家で宿題をしていた君は、突然熱を出してグッタリしてしまった。僕は急いで母に伝えると、直ぐに美咲の母の会社に連絡を入れて、母は僕に美咲の家に、美咲を連れて行ってあげるよう言ってきた。


 怠そうにしている君をなんとかして抱き上げると、君は途端にグズり始めたのには参った。

 自分の家のベッドで寝ていたほうが良いはずなのに、君は僕に帰りたくないと訴えかけてきたのだ。すると君は僕の胸に頭を埋めて、グイグイと顔を押し付けてきた。

 その時はなんだかよく分からなかったが、僕は君を必死に抱きしめていた。

 美咲の頭皮は、まるで赤ん坊のように柔らかに香っていたことを、この時に初めて知った。


 僕の胸で息苦しくなったのだろう。息継ぎをするように火照り顔を僕の眼前に突き出した瞬間、僕と美咲は口づけをしていた。


 唇越しに少し当たっている彼女の八重歯の感触で、まるで全身に電気が走ったような衝撃を後頭部に感じて、恐らく数秒間は、そのままの体勢でいたと思う。

 我にかえったのは、荒々しくなった美咲の鼻息によるものだった。

 急いで美咲の唇から離れると、とにかく大慌てで君をおぶって僕が家を出ると、僕の母が先に美咲の家の敷地に入って行く後ろ姿が見えた。

 そのあと、その日はどうにも母と目を合わせることは僕はできなかった。


 君は・・・美咲は、人生で初めてのキスシーンのことを憶えていなかったようだ。

 それはそうだろう。偶然で、且つ朦朧としている最中での出来事なのだから。

 しかしあれは、間違いなく僕らのファーストキスであったのだ。

 だからといって、僕はなにも優越感や独占欲もない。

 心にあるのは、ただ単純な懐かしさと、美咲が記憶していなかったことに対しての、自分のふてくされた感情だけである。


 僕はその後、とても酷い風邪を彼女から感染されてエラい思いをしたが、それは余談としておこう。



 映画館を出た僕は、晩秋の空気を襟元に感じて、肩を縮こませながら、今日もあのたぬきうどんを食べて帰ろうと決めた。




 おわり



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