第13輪 戦場の夜

 自分の身体が光となっていく頃、勝毘は痛みというものから解放されていた。ほとんど身体は動かせないが、天高く広がる空の青さに笑いが零れる。


 勝毘が小学生の頃の、母親の葬式の日も同じくらい晴れた日だった。

 葬式での空模様は故人の人柄を映すというが、勝毘の母は確かに麗らかな日の光がよく似合う朗らかな笑顔を持つ女性だった。


 バラの一族は日本のフレグランス業界を牽引する香水ブランドの一角だった。バラの一族の本家である茨家出身の勝毘の母は、若い頃から調香師としての才能を発揮した。

 そんな母を愛した父は公私ともに彼女を支えるため、マネージャー兼ブランドのオーナーとして茨家に婿入りした。ふたりはすぐに、勝毘という息子も授かった。


 夫婦、そしてビジネスパートナーとして、ふたつの車輪は何の狂いもなくまさに幸せの街道を走っていた。

 だが、片側の車輪であった母はいなくなり、それでも走り続けなければいけない車輪は不安定になった。その不安定さは如実に父に現れ始める。


 母が残した香水やその知識はブランドの調香師チームに託され、経営が突然崩れることはなかった。

 だが、先細りの経営にプレッシャーを感じた父は、家に帰ると酒に逃げるようになってしまった。酔うと、勝毘に怒鳴ることが多くなった。

 元来、気の弱い子供だった勝毘は、怒鳴られると何も言えなくなり泣くことしかできなくなる。


「身の回りの片付けくらいしろよ! 俺は忙しいんだ! 俺をイライラさせるな!」

「ごめ、なさ……っ」

「謝る暇があったらやれよ!」


 家にいる時の父は、ずっとイライラして勝毘は常にビクビクと身を小さくしていた。怯えながらの生活は、勝毘に多大なストレスを与え、何をするにも父の顔を窺うようになった。

 おどおどして、返答もどもりがちな勝毘の態度は、不機嫌な父の神経をさらに逆撫でしてしまうのだった。


 その日は、外で飲んできたのか父は泥酔した状態で家に帰ってきた。


「お、おかえり、お父さん……」


 父の目は淀み、母が生きていた頃の優しかった父とはまるで別人のように勝毘には見えた。

 だが、小学生の勝毘にはもう父しかいなかったのだ。だからこそ、父に気に入られる存在であろうと不器用ながらも笑みを取り繕っていた。


「お前、顔だけは母親に似てきたな」

「え?」


 父の手が伸びてきて、また薄く小さな勝毘の肩を掴む……

 そこからの記憶を、勝毘はほとんど覚えていない。

 とにかく、痛かったことだけは覚えている。心も身体も、魂までも。すべてがぐちゃぐちゃに痛めつけられる長い夜だった。


 その夜以降、家での父は口よりも先に手を挙げるようになった。勝毘が泣いても喚いても、誰も助けてはくれない。

 ただ、仏壇から母の写真だけが勝毘を見つめていた。


 だが、小学校高学年を過ぎると勝毘の身長は一気に伸び始める。

 身長が伸びる前は女の子にも力負けするほどだったが、教室の誰よりも大きくなってからは、相手をちょっと押すだけで簡単に怪我をさせてしまえるほどだった。


 勝毘は少しずつ、父と同じような力を持ち始めていることに気付き始めたのだ。


 そんな最中、いつものようにリビングで酒を飲んでいた父に呼ばれた。何かぐだぐだと話をされるが、勝毘の目にはいつもより小さく感じる父の姿しか見えなかった。


「おい、聞いてんのか!?」


 こんなにこの人は小さかっただろうか。今なら、もしかして……と、勝毘はいつの間にか顔に貼りつけていた笑みを剥がしていた。


「……聞いてない」

「あぁ!?」


 父が空になった酒瓶を片手に振りかぶる。酔った父の動きは緩慢で、その動きは散々殴られてきた勝毘の目に焼き付いていた。

 勝毘はほとんど無意識のうちに父の手首を掴むと、そのまま腕を背負って背中から叩き落とす。


 初めて、勝毘が父親に反抗した瞬間だった。


「勝毘……お前っ、誰が育ててやったと思って……っ!」

「うん、だからもう大丈夫」


 父に馬乗りになり、何度もその顔面を殴りつける。


「やめっ、ブッ……やめっろ……!」

「なんで?」

「ガッ…、バ……やめ、ろ!……やめてくれっ!」

「俺がやめてって言っても、やめてくれなかったのに?」

「っ……!」


 自身の手が血に塗れていくことにも無頓着なまま、勝毘は父親を殴り続けた。

 やがて抵抗の声も出なくなった父は、原型が分からないほどに顔を腫らして気を失う。

 静かになったリビングで、勝毘は自身の手に着いた血を改めて眺めた。


「母さんが好きな薔薇、こんな色だったな……」


 その瞬間、勝毘は自身が何かから解放されるのを感じた。

 今までの自分は弱かった。だから、父に虐げられてきたし、怯えることしかできなかった。


「弱い奴は強い奴の前にひれ伏す……なんだ、すっげーシンプルだな」


 それから間もなく、勝毘はバラの力に目覚めるが、その頃には自身の腕力だけで周りを屈服させられるだけの力を十二分に備えていた。

 勝毘を慕うもの、そして『力こそ正義』という勝毘の声に賛同するものが集まり、愚煉薔薇隊は結成される。


 それが花の一族の界隈で巡り巡って、バラの一族から優秀な能力者が生まれたらしいと噂が流れるのだが、勝毘からしたらどうでもいい話だった。

 愚煉薔薇隊として喧嘩する時の勝毘は、一度として花の力を使ったことはない。


 しかし、シオンから御前試合の話を聞いた時、勝毘は自身の血が沸騰しそうなほどの興奮を覚えた。

 強いものが正しい、という勝毘の信念をそのまま反映させたようなルール無用の試合。そこでなら思う存分、自分の力を示すことができるのだと。


 だが、純粋な腕力ではなく、花の力を使った喧嘩に勝毘は負けてしまった。全く悔しくないと言えば嘘になるが、どこか清々しささえ感じていた。

 勝毘はヨシノが憑依した宮人の剣筋を全く捉えることができなかった。笑ってしまうくらい完敗した喧嘩なんて、勝毘は始めてだった。


 今感じている悔しさは、父に虐げられていた時の気持ちとは違う。

 むしろ、喧嘩で勝ち続けながらも、勝毘は気弱な頃のような恐怖を押し殺していた。次に負ければ、またあの惨めだった頃の自分に戻ってしまうのでは、という恐怖だ。

 だが、自分はもう消えていく。すべてから解放される。

 そう思うと、負けたというのに心はひどく軽かったのだ。 


 消えゆく時を待つ勝毘の横で、ぐすぐすと美甘は泣いている。


「僕が、もっと……茨くんくらい強かったら」

「あ? ふざけてんのか?」

「え……」


 勝毘の言葉に、美甘はキョトンと目を丸くする。ふざけているつもりなど全くなかった美甘には、勝毘の言葉の意図が読み取れなかった。

 そんな美甘に、勝毘はふんと息を吐く。


「俺が、誰かのせいで負けたって言いたいのか? 違うな。俺は俺自身のせいで負けたんだ。勝手に持ってくんじゃねぇ」

「でも……」

「じゃあ、俺がもし勝ってたら、それはお前のおかげになるのか?」

「っ……!」

「ふざけんなよ。これは、俺が選んだ茨道なんだよ。お前はただ、俺の後をくっついてきたひょろいやつ!」


 ビシッと勝毘に指差されて、美甘はさらに顔をぐしゃぐしゃに歪ませる。


「あぁぁ! やっぱり、僕じゃ勝毘くんの力になれなかったんだ……!」

「だー! そうは言ってねぇだろ、泣くんじゃねぇ! それでも愚煉薔薇隊の一員か!」

「え……」

「何呆けた顔してやがる。お前が入りたいって言ったんだろ」

「確かに言ったけど、僕みたいなひょろいの……」

「この特攻服とっぷくについてくるやつは、みんな愚煉薔薇隊よ!」


 昔を思い出すなんてらしくないことをした、と勝毘は苦笑した。

 自分は愚煉薔薇隊の総長。隊員の前で、弱い姿を見せるわけにはいかない。


「だからまぁ……一緒にいてくれて、ありがとな。美甘」

「っ、……僕の方こそ、ありがとう。勝毘くん……」

 

 最後にそう呟いて、美甘は光の粒子となって消えていった。

 残された勝毘も、もうほとんど身体は残っていない。


「勝毘、くん……」


 声をかけたのは宮人だった。李谷のおかげで随分と動けるようにはなったが、勝毘に貫かれた肩は動くたびに痛む。

 勝毘は自身へと向けられる宮人の沈んだ面持ちを、はっと笑い飛ばした。


「俺に勝ったくせに辛気臭ぇ顔してんじゃねぇよ。やらないとやられるって、お前も言ってただろ」

「そう、なんだけど……」

「だぁから、やめろ、その顔! 弱者の顔してんじゃねぇ!」

「……っ!」


 勝毘の言葉に宮人はピンと背筋を伸ばす。そしてできる限り、顔を引き締めた。


「よしよし、これからもずっとその顔でいろよ。茨勝毘さまを倒した男の顔だ。さっきの辛気臭ぇ顔してみろ、あの世からぶっ飛ばしに来てやる」

「肝に、銘じます……」


 ニッと最後に歯を見せて笑って、勝毘の姿は完全に消えていった。

 勝毘だった光の粒は宮人のオーニソガラムへと流れていく。花は仄かに光って、緑に蕾んでいた花が2輪、白く開いた。


「やっぱり、これからも戦わないとダメなのかな……」


 可憐な花に視線を落としたまま、宮人が誰にともなく呟く。

 それに応えたのはヨシノだった。


『今のところはな』

「今のところ……?」

『この御前試合は、何か隠されている』


 ヨシノが声を潜めるように宮人へと囁いた。周りに聞こえない声をわざわざ潜めたヨシノに、宮人まで声が小さくなっていく。


「隠してるって、何か知ってるの?」

『ちゃんと知っているわけではない。だが……赤いのが言った、長寿の力については俺としては疑問が残る』

「え?」

『赤いのも本質までは知らないのか、それとも嘘をついているのか……』

「そんなこと……っ!」


 天穂を疑うようなヨシノの発言に、思わず宮人は声を高くした。その瞬間、城がグラグラと揺れ始める。


「えっ、何!? 地震!?」


 李谷がおろおろと辺りを見回していると、天穂が声を上げた。


「違う! 城が崩れ始めたんだ!」

「「えぇ!?」」


 宮人と李谷の声が重なった。

 李谷が崩れていく城の中で道を切り開き、宮人と天穂がよろめきそうになりながら続いていく。瓦礫の中を走り抜けると、背後でガラガラと崩れ落ちていく城に土煙が舞った。


 風圧に突き飛ばされながら、3人は森の茂みをクッションに倒れ込む。

 茨の城は跡形もなく崩れ落ち、瓦礫の山だけが残った。


「勝毘くんがいなくなったから崩れたのかな……?」


 宮人の言葉に、天穂がふうっと息を零す。


「それか、俺たちが暴れまくったせいだろうな。せっかくの拠点候補が……」

「あーあ、テンテンがあんなに暴れるから」

「お前も人のこと言えないだろ!」

「まあまあ……」

『こいつら、元気だなぁ』


 李谷と天穂のやり取りに、宮人はついホッとしてしまう。言い合いを続けるふたりを宥めながら、宮人の頬は緩んでいった。


「……とにかく、今夜だけでも過ごせる場所を探そう。時間もない」

「雨風凌げる場所がいいね」

『今日の疲労を少しでも回復しないと明日はお陀仏だからな』


 縁起でもない、と宮人が心の中で呟いた時だった。


「あー!」


 李谷が思い出したように声を上げる。突然の奇声にふたりは肩を跳ねさせた。


「今度は何だ!」


 天穂が不機嫌さを隠さずに李谷を振り返ると、李谷は身体をもじもじとさせながら宮人に近寄っていく。


「ど、どうしました、モモさん?」

「そうじゃなくて、俺ともテンテンみたいに話してほしいなぁって」

「え?」


 李谷の言葉に宮人が首を傾げる。その横で天穂は、盛大な溜息を吐いた。

 

「くだらない……」

「くだらないって何だ、テンテン!」

『本当にくだらないな』


 天穂はずんずんと森の中へと探索に歩き始めてしまう。どう答えたものかと考えていた宮人の肩を掴んだ李谷は、半泣きになりながら叫ぶ。


「なんか敬語って距離感じてヤなの! ね、お願い!」


 宮人はやはり、人に頼まれると断れない。

 

「じゃあ、えっと……これからもよろしく。モモさん」

「……!」


 ぱぁっと顔を輝かせた李谷に、宮人はより照れくささを覚えてしまう。


「おい、時間がないと言ってるだろ」

「あぁ、ごめんね! 天穂くん」


 宮人が天穂に返事をすると、その後ろで李谷はぶつぶつと呟く。


「やっぱり、俺もモモくんって『くん』付けの方が……」

「行こう、モモさん!」

「よし、行こう行こう!」


 今はとりあえずタメ口から。それでひとまず、李谷は満足することにした。


 暗くなっていく樹海でも、宮人は思いの外怖さを感じなかった。それは、隣にいてくれる李谷と天穂のおかげだろう。

 ようやく見つけた巨木の洞の中で御前試合1日目の夜は休むことにした。


 代わりばんこに見張りをすることになった夜。眠る必要がないヨシノは、見張りの順番が来た宮人の隣で眠気覚まし代わりに言葉を紡ぐ。


『過酷なのはこれからだぞ? 弱いものは振り落とされ、次に当たるのは間違いなくより強いものになっていく』

「そうだね、でも……自分から負けにいくことはないよ」

『勝つとは言わないのが、お前らしいな』

「だってヨシノが言ってたでしょ。御前試合は何か隠してるって。それが分かれば、もしかしたら何か戦わなくても良い方法が見つかるかも」


 宮人の言葉に、ヨシノは木々の隙間から覗く星空を見上げた。


『さぁ、どうだかな』


 そう答えたヨシノの口元には、何か期待の籠もった笑みが浮かんでいるのだった。

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花は嵐~青木ヶ原御前試合~ 柳田知雪 @chiyuki_y

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