冬の日に林檎を推す
白鷺雨月
第1話 冬の日に林檎を推す
彼女との出会いは今でも忘れない。
それはある冬の寒い日の夜であった。
僕は仕事帰りにいつものように最寄り駅からでると彼女がいた。
その日は僕にとっても特別の日だった。
前の仕事の最後の日であったからだ。
僕は仕事を辞め、以前からやりたかった写真の仕事を始めようと思い、一人何の頼るものもなく駅の出口から自宅マンションへと歩みを進めていた。
彼女は一人、この冬の寒空にギターを膝にのせ、歌を歌っていた。
彼女の回りには僕をふくめて四人ほどの人間が集まっていた。
彼女の歌声は僕が歩くのをとめるほど綺麗だったからだ。
透き通るとは彼女の歌声のためにあるように思われた。
一曲が終わり、僕は思わず拍手をしていた。
ニット帽の彼女は拍手を送るぼくにペコリと頭を下げた。
僕は彼女の顔を見て、心臓が止まるほどどきりとした。
それはその容貌が歌声と同じほど美しかったからだ。
「お兄さん、何かリクエストある?」
彼女は僕に訊いた。
「それじゃあ、上を向いて歩こうを歌ってくれるかな。今日ね、僕は仕事を辞めてきたところなんだ」
僕は言った。
これからなんの保証もなくなった僕にせめてものエールが欲しいと思い、その曲をリクエストした。
「いいよ」
にこりと彼女は笑顔を浮かべると、ギターを奏で、歌いだした。
冬の寒空のロータリーに彼女の歌声響く。
一曲、聞き終えた僕は勝手に涙がこみあげてくるのを覚えた。
「ありがとう」
僕はそう言い、ギターケースに千円をいれた。
「頑張ってください」
僕がそう言うと。
「お兄さんもね」
と彼女は言った。
それが
あの冬の日から季節はかわり、暑い夏がやってきた。
僕はコミックマーケットに来ていた。
そこにはサークルで参加するためである。
そこで友人たちとつくった同人誌を販売するためである。
僕はそこで和歌山県で撮ったかつての防空壕跡地などの写真をのせた写真集をもってイベントに参加した。
まあ、売り上げはそこそこだった。
それよりも僕たちの本を手に取り、眺めて、買ってくれる人たちを見ることができたのはなによりも嬉しかった。
「君もなにか見てきたら」
一緒に参加した友人がそういうのでその言葉に甘えて、僕は会場をまわることにした。
会場はある種の熱気に満ちていた。
皆、多種多様な好きなものを見つけては一喜一憂している。
ここには好きであることを否定するものはいない。
あなゆる好きが積み重なっている場所だ。
僕はその熱気にあたり、汗をだらだらとたらしながら、会場を見てまわる。
そこでサークル参加しているある音楽グループをみつけた。
そこで売り子をしていたのはなんとあの上をむいて歩こうを歌ってくれた木崎林檎がいた。
彼女は自分がボーカルをつとめるバンドのCDを売っていた。
僕はその一枚をてにとる。
「これ、一枚ください」
僕はそう言う。
あの木崎林檎の歌声を自宅で聞くことができるのだ。
これは間違いなく買わなくてはいけない。
そう言えば、誰かが言ってたな。
推しはおせるときに推せと。
「ありがとうございます。今日は買ってくれた人にサービスで私のソロのシングルもつけますね」
お金を受けとり、にこやかに木崎林檎は言った。
「あ、ありがとう」
僕はうわずった声でそう言う。
「あ、あの、よかったらサインしてくれませんか」
僕は勇気をだして言った。
この機会をのがせばいつ彼女と出会えるかわからない。
「え、私のですか。うれしい、もちろんいいですよ」
そう言い、彼女は僕が購入したCDにさらさらとサインした。
それから数年がすぎた。
僕はある会社に再就職した。
もちろん、写真の夢は忘れていない。
ただ、それだけで食べていくのはなかなか難しいのも現実なおである。
僕は再就職した会社の同僚と休日のショッピングモールで買い物をしていた。
同僚の名前は鈴木花梨という背の高い、なかなかの美人であった。
どうして僕なんかにかまうのかよくわからない。
花梨はなにかにつけて僕をいろんなところに誘い出す。
僕たちはそのショッピングモールに入っている書店に立ち寄った。
その書店で僕はある雑誌を手に取る。
それはあの木崎林檎が表紙をかざっているファッション雑誌であった。
「あ、この人知ってますよ。最近よくテレビにでているシンガーソングライターでしょ」
花梨は言った。
僕はもっと前からしっているけどね。
「あ、そうそう。これ見てください。私、買っちゃいましたよ」
花梨はそう言い、カメラ雑誌を僕に見せる。
そのなかのページには電車と一緒にうつる花梨がいた。
僕が花梨をモデルにして撮った写真だ。
そのページには僕の名前と優秀賞という文字が書かれていた。
冬の日に林檎を推す 白鷺雨月 @sirasagiugethu
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