殺塵

@k_and_cc

Dust killed Dust.

 「私達二人ではとても怖くて出来ないから。あなたがとどめ、さしてちょうだい」

 「そう言うからさ、おじさん。私が始末をつけたってわけよ」

 「それでお前、どんな感触がしたよ?」

 「ううん、どうだったかなあ……」

 今朝になってはもう覚えていない。どんな感触だったかも、酒場で昨日おじさんと何を話していたかも。けれどあの生暖かい朱色の視覚だけがどれだけウイスキーを呷っても脳の何れかの連合野の何れかの部位から抜けていかない。

 苺やトマトによく似た、あのみずみずしい赤。

 その音も匂いも温度も味もすっかり忘れているのに、あの腟壁の紅だけがどうも離れていかない。

 まだ昨晩のウイスキーが喉と鼻から抜けていないようで、私の酒臭い吐息の口づけを彼女は頑なに拒んだ。それもまた愛嬌と私は寛容になり、ベッドでもう一眠りしようと目論んだのだが、次の瞬間には彼女の手が私の恥部に伸びてきたので私はすぐに目を醒ました。

 彼女はアボガドとチーズと鮮魚と、したがって酢飯を好んで食べた。動物性、植物性を問わずタンパク源多めの食生活であるからか、彼女のアンモニアはとても濃厚だった。色濃く黄濁する小便こそ彼女の真髄だと私は思った。彼女の体躯は残り香の強烈な尿を排出し、彼女の体躯は残り香の強烈な尿で出来ている。それが私には心地よかった。

 死を迎える命は本来、留めていた硫黄を垂れ流して大地に還る。腐敗した死骸は地に染み出し、初めに菌の餌食となる。アンモニアを頼りに死骸にありつく彼らは、たちまちそれを新しい生命の礎へと変換する。次に菌類の手を掻い潜った死骸は、さらに腐って地中深くまで染み出し、自ら化石燃料となって今を生きる命の動力源になりかわる。それでも地中にとどまることを知らず泥泥に腐り続けた死骸は次第に熱を帯び、遂にはマントルまで染み出し、我が母なる大地の永久機関と合流するのだろうか。

 ともかく腐敗の母なる大地に力強く根差し、養分を食らい尽くし成るアボガドの樹木と酢飯の稲穂は、言い換えるなら腐り果てた死骸の織りなす造物だ。両者はともに根から地中の養分を取り込んで育つ、そしてその地中の養分は全て死骸からできている。つまり、アボガドと酢飯を好んで食べる彼女の体躯もまた硫黄を振りまいて腐る骸の似姿だ。

 遥かな海の奥深く、そこは腐敗なる大地と同じく死骸の瘤で溢れかえる生命誕生の地。とりわけ高度な文明社会の今日では私達の糞尿が直接流れ着く。地球の内部から湧き出る酸素が、表層から深海層にかけて命を全うした海の死骸と私達のアンモニアと塩水とを攪拌して微生物を生み出す。それが太陽を浴びて育ち、海の植物を育てる。次にこれが餌食となり、先の微生物を大きくする。そこから弱肉強食の食物連鎖が母なる海を形作り、遂にはシロナガスクジラの誕生まで到達する。

 たくさんの命がこの久遠の生死の循環を往く最中、彼女が数匹の鮮魚を捕らえる。寿司か刺身か、生きたまま捌いた彼女はそれを最も新鮮な死に様で食らう。鮮魚を好んで食べる彼女の体躯はやはり、硫黄を振りまいて腐る骸の似姿だ。海の死骸の集積を食べて彼女は生きている。家畜とその死骸と私達の糞尿から織り成されるチーズを好んで食べることからも、このどうしようもない事実は証明されている。

 やはり美しい彼女はアンモニアで出来ている。熱中して私の恥部を弄ぶその姿は彼女の吐息とフェロモンで目が眩みそうになる程に艶やかで、しかしそこには一片の可憐さも確かに備わっていて、なめらかな青白い肌と丸みを帯びた腰回りと全てを吸い込んでしまいそうな股関節と絶妙に黒ずんだ脇腹とが完璧な調律で一つの身体に共存していた。それが私には美しかった。けれどその美しさ以上に、彼女が腐敗した塵芥の似姿であることが私にはたまらない心地よさだった。それは快感というよりはむしろ安らぎや寛ぎの類で、彼女は私にありのままでいることを許した。

 だから私達は一つになった。単に彼女の愛撫が満ち足りてきたというのもある。部屋の埃っぽさも、窓を差す陽光の眩しさも、カビ臭い布団も、昨日のウイスキーも私達は何も気にならなかった。ただ彼女は死骸の塵で出来ていて、私もやはりそれで出来ていて、二人が交わることはひたすら心地よかった。

 一つに交わる私達ならシロナガスクジラにも打ち勝てる気がした。

 来て。

 彼女が言うので私は行った。

 死骸の似姿から生み出された生命の源が、死骸の似姿の奥底にある生命の泉へと歩みを進める。不思議だ、死からこそ生が始まる。私は、彼女は、死骸の瘤から這い出て生まれ、限りなく新鮮な死体を食べて再生を繰り返し、遂には別の新たな命を生み出す。綺麗だ、一度に繰り出された一億二千万の旅客はひとりでに生命の泉を目指し、泉は彼らのうちのたった一つを選び取る。

 曇天の日差しが注ぐ埃っぽい部屋の陰湿な布団の上で、酒気を帯びて射出された生死の鍵は汚れのない純白のまま一つの宮殿の門戸をこじ開けようかという地点まで進行する。だが、既の所で最後まで走り続けた彼は果てる、待ち焦がれていた彼女は身寄りのないままに果てる。新たな命はどうやら生まれそうにない、最も短い二人の生死。

 愚かだ、しかしそれでいい。

 ……て。……きて。

 ……起きて。

 「あなたを重要参考人として連行します」

 目が覚めた時には数人の警官がカビ臭い布団に寝転がった私と上体だけ起き上がった半裸の彼女を取り囲んでいた。

 「どういうこと、あなた」

 「わかりました。彼女は関係ないので私だけで構いませんね」

 「はい、あなたに対する令状しか出ていません」

 ちゃんと説明してから行きなさいよ。

 彼女は掛け布団に顔を埋めて絶句した風にしてみせると頭二つがすっぽり収まるキングサイズの枕を手にとって四二型の液晶テレビ目掛けて思い切り投げつけた。狙いは外れて花瓶に直撃し、ガラスと水と生花が方々に散らばった。取るに足らない淡い恋だったと私は思い、部屋を出た。

 設定温度二〇度の室内を出た私にとって外気は適温に感じられた、日差しが肌に優しい。蟬が耳を擘いてうるさいことと、二人の汗と彼女の体液が生乾きで鼻をつくことだけが不快で、幾分穏やかな夏だったように思う。マンションをエレベーターで下って正面玄関を出るとパトカーが路駐してあった。

 「お巡りさん、一つよろしいですか」

 後部座席の左側に乗り込む際、三人のうち助手席に座ろうかという警官に話しかけた。

 「何だ」

 「彼女の上裸をじろじろ見尽くした挙句、股間を反応させたあなたも重要参考人としてもちろん連行されますよね」

 締め切った瞬間のパトカーの空気が豹変する。手の甲を杭で串刺しにするような三人の鈍く尖った眼差しが私を襲う。矢先、左頬に衝撃が走る。後部座席の警官が頬を殴った。次に助手席と運転席の間から拳が飛んできたと思うと私の胸ぐらをぐいっと掴み、車両の前方に引き寄せる。指一本分まで顔が近づき、車内いっぱいに警官の罵声が響く。タバコと発泡酒の入り混じった最悪の口臭だ。

 「黙れ、思想・良心の自由で無罪放免だよ。大人しくお縄についてお寝んねしてな」

 罪と罰はそもそも顕在しているものについての議論だ、決して潜在的なものについてではない。

 短絡。

 「五六七二番、××」

 気がつくと左のこめかみ辺りがひどく痛んだ。どうやら殴られて失神している間に留置場に収容されたらしい。

 「早速明日、お前への面会が申し込まれている。時間は朝の八時半からだ、いいな」

 「わかりました」

 目を覚ましてからこめかみの痛みが次第に強まっていくので再び横になろうとしたのだが、看守がなぜか扉の前から立ち去らない。

 「お前はきっと長くなる、これからよろしくなあ」

 「よろしくお願いします」

 「それでお前、どんな感触がしたよ?」

 上質な彼女の唇に似ているが、それより幾らか黒ずんだ赤が裂けた脇腹から勢いよく流れ出ている。腐敗した死骸の似姿であるはずの私達には赤の鼓動が通っている。   

 血だ。

 「血だ」

 つり目の嫌な雰囲気の看守が右の口角だけ上げてほくそ笑む。

 「私は返り血を浴びた。そして、匂いも液も全て酒で洗い流した」

 「そうか、改めてよろしくなあ」

 格子越しに看守が握手を求めてきたが、私は無視して背を向けて再度横になる。

 留置場の床と布団と枕と毛布と天井とは無機質で簡素な匂いだったけれど、今朝の汗と彼女の体液が、水分こそ乾き切っていたけれど、生乾きの臓物の匂いをすっかりシャツに染みつかせていたので、退屈せずむしろ安らぎ、寛ぐことができる。

 夢を見た。

 オープンカフェのテラス席で女性と白衣の医者が会話している。

 「『私達二人ではとても怖くて出来ないから。あなたがとどめ、さしてちょうだい』」

 「そう言うんです、お医者さん。だから私、子どもの頃は真剣に自分が二人の始末をつけるものだと思い込んでいました」

 女性は白のワンピースにオレンジジュースを、男性は白衣の下にワイシャツとチノパンを着てホットコーヒーを口にしていて、女性が身振り手振り話すと、白衣の男性が逐一メモをとる。

 女性は続けた。お前は塵であり、塵に返る。御神体も言っている。そもそも私達は腐敗した塵芥の似姿であり、私達も私達の子どもであるお前もみな死に生まれ死に帰る生者としてこの世にあるのだ。

 「子守唄を歌うように、私にこう諭すんです」

 馴染み深い嫌な論調だ。本当にこれは夢か。

 「お二人が普通でないと、あなたはいつ気がつきましたか」

 「兄を見て、気づきました。彼は幼い頃から二人の相手をする時の自分と、本当の自分のようなものを使い分けていました」

 「ほう」

 「一方の兄は二人の話をきちんと聞くよう、もう一方の兄は二人の話を一切あてにしないよう強く私に言い聞かせました」

 「つまりお兄さんが身を挺して二人の呪縛からあなたを守ったということになりますね」

 ……はい、と同時に兄はもう手遅れかもしれないとも悟りました。

 耳障りなブザーの音で朝になったことを知り、敷布団を三つ折りにして、その上に四つ折りの掛け布団、その上に枕を置き、隅に寄せる。昨日のうちに配布されていた歯磨きと歯ブラシとタオルで洗顔を済ませたらちょうど配膳口から朝食がきた。ご飯、納豆、卵焼き、がんもどき、佃煮、味噌汁、おしんこ。豪勢な和食を私は余すことなく堪能した。

 「おはよう」

 「おはようございます」

 「美味いだろう」

 「はい。今朝は僕の他に何人が同じものを食べているんですか」

 「十二人だよ」

 「なんとも縁起がいいですね」

 「ほら立て、面会の時間だ」

 面会場に行くとそこには妹が座っていた。隣には弁護人らしき男性もいる。

 「久しぶりに会うのにこんな所ですまない」

 「国選弁護人の佐藤と申します、初めまして」

 妹が弁護人に何やら耳打ちをする。

 「今は本当の兄の方です、先生」

 「妹さんから多くを聞いています。早速ですがいくつかお伺いしてもよろしいでしょうか」

 「いえ、おそらく意味がないのでやめておきます。先生、申し訳ないのですが暫く妹と二人にしてくれませんか」

 了承して弁護人が外に出ていく。妹は涙を堪えているらしかった。

 「お母さんとお父さんが望んだ通り、二人を殺したの?お兄ちゃん」

 「半分正解で、半分間違いだよ」

 私は妹に全て話した。間違いの一つは、子どもの頃を共にした妹なら既に気付いているかもしれないけれど、両親の思想が半分自分のものになってしまっているために、一概には両親の望み通りだと言えないということ。もう一つは、単に両親に従って今回の事件を起こしたのではなく、私の方にも意図があるということ。

 「もう終わらせたかったんだ」

 私にとって世界はいつだって昼夜逆転した悪夢だった。生まれてこの方、両親の痛烈な嫌悪を常に受けて育ってきた。あなたのせいで私は醜くなった。あなたのせいで俺は貧しくなった。あなたのせいで二人は苦しくなった。惨めだ、惨めだ、もう殺してくれ、私達二人ではとても怖くて出来ないから。あなたがとどめ、さしてちょうだい。あなたも私も俺も所詮は腐敗した死骸の似姿。おまえは塵であり、塵に返る。私達を塵に返せ、私達を塵に返せ。

 「どうして一言相談してくれなかったの」

 「もう記憶も定かでない随分前に、覚悟の揺らがないところまで来ていたから。世話を焼かせてすまない」

 「そんなことはいいの」

 看守が一般面会の時間制限を告げに来た。

 「最後に、彼女の家を尋ねてくれ。液晶テレビの裏に茶封筒が忍ばせてある。その中身を見て指示に従って欲しい」

 彼女は堪えることのできなかった涙をこぼしながら頷いた。

 さようなら、お兄ちゃん。

 入れ替わりで弁護人が入ってきて時間無制限の接見が始まった。予め犯行の動機を文書にしたため両親に送りつけていたこと、そのコピーとデータが自宅の書斎に残っていること、犯行の際に自宅の包丁を凶器として用いたこと、犯行後の逃走経路と行動、殺した直後に文字通り全身に浴びたウイスキーの銘柄、おじさんと楽しく話した居酒屋の店名まで、全て洗いざらい話した。

 「それでは裁判当日、よろしくお願いします」

 「よ、よろしくお願いします」

 これから死刑を宣告される私の落ち着きぶりに狼狽したのか、弁護人は慌てて面会室を出て行った。

 後日、裁判所の茶色と公営施設独特の古びた匂いが私の胸を高鳴らせた。

 「以上の事実を立証するために、準備医手続において検察官から、証拠番号検一番から五番までの証拠書類が請求されました。検察官、請求された証拠について説明してください」

 「はい。証拠書類検一番は、被告人の犯行動機と思われる文書です。パソコンのデータ、両親に送付した直筆の手紙の書き直し数枚がそれぞれ被告人の自宅から見つかっています。証拠書類の朗読は、内容面を鑑みて各裁判官の黙読に代えさせていただきます」

  『生まれてこの方、お前たち二人には痛烈な嫌悪感を日々抱いてきた。お前たちのせいで私は醜くなった。お前たちのせいで私は貧しくなった。お前たちのせいで私は苦しくなった。惨めだ、惨めだ、もう殺す、私がお前たちにとどめをさす。お前たちも私も所詮は腐敗した死骸の似姿。私は塵であり、塵に返る。まずお前たちから塵に返す、お前たちから塵に返す』

 「主文。被告人を死刑に処する。押収してある包丁一本を没収する」

 三審とも私は死刑宣告を受けた、今は刑務所にいる。

 一方、妹は既に彼女の家を訪れていた。警官が押し掛けて以来、部屋は荒んだままで以前よりも埃は増し、布団のカビは増殖し、陰鬱さは頂点に達していた。彼女は晩夏のまだ暑い時期に湿った毛布に包まって小さく、小さくかがみ込み、目の焦点は合っていない。頭髪からは嫌な匂いがする。

 「テレビの裏を少し見せてもらってもよろしいでしょうか」

 「これのことでしょ」

 私が連行された後、枕で粉砕した花瓶を片付けようとした際に彼女は封筒を見つけていた。A4サイズにも関わらず数百万の大金が入った時ほどに膨らんでいる。

 「これ持って何度も法律事務所や裁判所まで押しかけたわ。けど、再審請求は血縁しか行えないのよ」

 「そこに入っているのは両親からの手紙ですか」

 彼女は何も言わず涙を流しながら妹に手渡した。

  『生まれてこの方、両親の痛烈な嫌悪を常に受けて育ってきた。あなたのせいで私は醜くなった。あなたのせいで俺は貧しくなった。あなたのせいで二人は苦しくなった。惨めだ、惨めだ、もう殺してくれ、私達二人ではとても怖くて出来ないから。あなたがとどめ、さしてちょうだい。あなたも私も俺も所詮は腐敗した死骸の似姿。おまえは塵であり、塵に返る。私達を塵に返せ、私達を塵に返せ』

 そこには、私が十六歳で両親のもとを離れてから九年間全部で三二八五通、毎日欠かさず全く同じ文章で綴られる母からの手紙が保管されていた。ある種の呪いといっていい。

 「彼がこんな薄気味悪い仕打ちを毎日受けて暮らしているなんて」

 「兄のために心を痛めてくれてありがとうございます」

 「これを証拠として出せばきっと無罪でしょ、彼を助けて」

 「再審はしません」

 妹は読み書きを教えてくれた両親の直筆を懐かしむように、一枚一枚丁寧に読んだ。数にして三二八六通。一枚だけ紛れた手紙ではない私からの伝言を妹は見逃さなかった。

  『もう終わらせたい。いつからか私自身が分裂して、本来の自分でいる時も両親と対峙する時の自分が枷になって、生きること、与えられた命を堪能することが敵わなくなってしまった。私は先に骸に返る。最後に私が願うのは、私が私のままでいることを許してくれた人にちゃんと事実を知って欲しいということ。おまえは塵であり、塵に返る』

 「どうしてよ、実の兄を見殺しにするわけ」

 「それが兄の願いだからです」

 妹はジーパンのポケットからマッチ棒を取り出し、点火した。茶封筒は一気に燃え広がり彼女の部屋を瞬く間に炎で包んだ。

 彼女に手を差し出し、妹は言う。

 「選んでください。兄と一緒にいま死ぬか、これからも私達は生きるか」

 絞首。

 燃え盛る三一九号室、二人はもういない。いずれ此処は塵塵の灰となる。


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