【KAC20222】 野田家の人々:推し活
江田 吏来
第2話 推し活
俺は焦っていた。
玄関の扉を勢いよく開けて、手洗いうがいを素早くすませてから居間に飛び込む。
こたつで背を丸めた弟が、ミカンをもぐもぐしていた。
「この一大事にのんびりしやっがって、さては貴様、非国民だなッ」
「は?」
ポカンと口を開けて間抜け面をしているから、スマホを突きつけた。
「俳優、
「兄貴、波多野のファンだっけ?」
「バカ、俺じゃない。オカンだよ、オ・カ・ン」
俺のオカンは波多野の大ファンだ。
不眠症を治してくれたとかで、近所のおばさんたちと推し活に
「うわぁああ、そうだった。忘れてた! オカンの波多野推しはエグいからな。不眠症に逆戻りか!?」
「不眠症で終わればいいが、また鬱になったら……」
「だいたい、兄貴がいつもバカなことするから、オカンがおかしくなったんだ」
「講義室のストーブで焼き肉をしてなにが悪い!」
「えっ、そんなことしてたの?」
「ちょっと煙が出て、警報器がなっただけだ。こっちはキツーク叱られたが、退学にはならない。オカンには黙ってろよ」
「……もうバレてるよ。さっき電話があって、なにやら頭をペコペコさげて飛んでったから、謝りにいったかも」
「なんだって!?」
「あーあ、バカな兄貴のせいで気苦労が絶えないな」
「そんなオカンが波多野の結婚を知ってしまったら……」
俺は頭を抱えた。
オカンは不眠症から鬱になったことがある。
毎日、死んだ魚のような目をして、ぼぅーっとしていた。家の中も荒れ放題で、野田家は崩壊の危機に
ところがある日、うっかり消し忘れたテレビに波多野が映る。
女にフラれても、仕事をクビになっても、明るい笑顔で前向きに生きる役を演じていた。
「世の中には……バカがいるのね」
数ヶ月ぶりにオカンが声を発したのだ。
それからの回復はすごかった。
まったく動かなかったオカンが部屋の掃除をはじめて、俺たちを大声で叱り飛ばす。
気がつけば綺麗になった部屋に波多野グッズが並んで、家族全員が『I
「あれだけ眠れなかったのに、波多野サマの写真を枕の下に敷けばぐっすりなの。あんたたちも、やってみなって」
残念ながら、男の写真を枕の下に忍ばせる趣味はない。
だが、推し活のおかげでオカンは正常に戻った。いや、ライブや舞台をみにいって、DVDや配信画像を鑑賞する。テレビドラマの聖地巡礼にでかけて、グッズを買いまくる。俺たちに波多野の魅力を熱心に語り、布教しようと必死だ。さらに推しである波多野が生きていることに感謝して、毎日を過ごしている。
ここまでいけばもう新たな
その波多野が結婚!
オカンが受けるショックを考えると、いても立ってもいられない。
「ただいまー」
オカンが帰ってきた。
俺は玄関まで猛ダッシュ。すかさず土下座。
「すまん、悪かった。もう講義室で焼き肉はしない! 鍋焼きうどんで我慢するッ」
「どっちもダメだろ」
弟のツッコミが入ったが気にしない。それよりも、波多野の結婚だ。
「オカン、テレビはもうみたか? 波多野が……」
「ああ、美人さんと結婚やね」
「だ、大丈夫なのか?」
「なにが?」
「推しが結婚だぞ」
オカンは鼻でフッと笑った。
「推しの幸せを願えない奴に、ファンを名乗る資格はない。いくら愛があっても、大好きな人を悲しませたらアカンのや」
「オカン……」
ババァのくせに輝いてみえた。
【KAC20222】 野田家の人々:推し活 江田 吏来 @dariku
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