とある作家の無名のパトロン
悠井すみれ
第1話
ノックの音がした。俺は身構えて、外からどんな言葉が掛けられるかに神経を研ぎ澄ませる。同志の合言葉か、官憲の怒鳴り声か。
「……ご不在ですか? バローさん?」
……今週の合言葉ではない。しかも、俺の名を把握している。官憲にしては丁寧な言葉遣いだが、油断は禁物。俺は、音を立てないように隠し扉に手を伸ばそうとした、のだが──
「ご不在ならガスパル通りに行きますね」
「おい、待て……!」
まさに今日、集会が行われているはずの場所をさらりと言われて、慌てて玄関の扉に飛びついた。
「なんだ、いらっしゃるじゃないですか。──人目に着いたら困るだろう。中に入るぞ」
場所が割れているならこいつを止めても無駄だった。やっぱり隠し扉から出て同志に危険を知らせるべきだった。……そう、気付いたのは訪問者の爽やかな笑顔と、裏腹に剣呑な低い声に迎えられてからだった。俺はまんまと釣り出されたのだ。
* * *
招かれざる客の不躾な目から隠そうと、俺は書きかけの原稿をひっくり返した。次にこんなことがあった時のために、夏でも暖炉に火を絶やさないようにしよう、と決意する。
「何の用だ。俺は何も口を割らないぞ」
客は、労働者に変装したつもりなんだろうが、まったく甘い出来だった。服は、そこら辺の古着屋から買ったであろうツギだらけのもの。でも、こんなきれいな髪と手と肌のヤツが下町をうろついてるもんか。ここに来るまでに追いはぎにあってれば良かったのに、と睨むが、相手は意に介した様子はない。
「そう思っているなら拷問を甘く見ているな。まあ、それは私の仕事じゃない。そう怯えるなよ」
「なんだと!?」
声を荒げかけて──俺は、客の
さらに眩しく綺羅々々しく輝いているのは、そいつが差し出した小箱に収まった宝石だった。
「我が主の遣いで参りました。貴殿の著作に大層感銘を受けられたと──これは、些少ながら主のお気持ちです。今後の活動に役立てられますように、と」
夜空のような黒いベルベットに載った、星のような宝石が三つ。青玉と紅玉と碧玉と。虚飾に満ちた王宮で、鉄の剣や鎖によってではなく。青い空と燃える太陽の下、地を耕す民が未来を担うべきだ、と──確かに俺の文章を読んだ上でのお気持ちらしい。
「俺たちの考えに賛同する奴がいるんだな、お偉方の中にも」
「とりわけ、主は貴殿の筆致を称賛しております。貴族も聖職者も歯に衣着せずに面白おかしく風刺して──国王を
客が箱の蓋を閉じた後も、宝石の輝きの名残が俺の視界にちらついていた。一度あの眩さを見てしまうと、ぼろっちい部屋のみすぼらしさが一段と際立つ気がした。宝石は、台座も何もない
本も出せるし武器も買える、獄吏を買収して同志を脱獄させたり、飢えた子供にパンをやったり──金は、いくらあっても足りない。だが。
「あんたのご主人は、どこの貴族様だ。俺たちは──俺は、施しは受けない」
「何かと物入りでしょうに。金に罪はないのでは?」
わざとらしく室内を見渡す客の、それこそ宝石みたいな青い目が憎たらしかった。顔立ちそのものも整って人形みたいで、作り物めいて。
「それなりの身分がある奴なら、金よりもっとできることがあるだろ。それこそ王様を働かせるとか──見せ物に小銭を投げるみたいなことをされて、受け取れるか。俺の本を読んで、まともに理解したならやり方が違うのは分かるだろうよ」
怒鳴るか、脅すか──驕り高ぶった権力者らしい手を使われるのだろうと、俺は身構えていた。だが、客は小箱を懐にしまうと、静かに微笑んだ。
「……お言葉は主に伝えましょう。きっと、喜ばれる」
「あ?」
「何しろ熱心に貴稿を読まれているので。尊敬する作者からの直々のお言葉は、それは、喜ばれるでしょう」
つまりは、突っ返されること前提でのお気持ち、なのか? 期待通りの反応でご満足だろう、って?
「ふざけ──」
「まあ、俺は唾棄してるがな。お前も、お前のお仲間も」
殴りかかろうとして──客のお綺麗な笑みが、回転した。いや、足を掬われて転ばされた。床に這いつくばった俺を見下ろす宝石の目。今のこの国の縮図のような、上下関係だった。
「本来なら通報するのが義務だろうが、主の命には背けない。あの方を悲しませることがないよう、隠れ家には十分以上に注意を払うことだ」
「言われなくても……!」
歯軋りしながら呻いた俺に華やかに笑うと、客は去って行った。残された香りまでが優雅で芳しいものだったのが、なおのこと腹立たしかった。
* * *
俺は速やかに居場所を移動し、俺たちは活動を続けた。宝石なんぞを押し付けて来た篤志家に頼るまでもなく、俺たちの賛同者は日に日に増えた。
民の声が高まるにつれて、出自を問わずに出世や成功する道も少しずつ開けて行った。
俺は、俺の書いた文は、時代を動かした。無論、最も功績があるのは無名の民のひとりひとりだが。少なくとも、切っ掛けのひとつとうぬぼれても良いだろう。いや、俺は実際うぬぼれていた。国王一家がほとんど身ひとつで国を出た直後、革命政府によって王宮に召喚されるまでは。
「公表するのもどうかと思うのですが──作者の方には、一応お知らせしたほうが良いかと思いまして」
困惑顔の役人が案内してくれたのは──王の書斎の、本棚裏に隠された小部屋だった。王が愛人を囲っていたとか、何か悪事の証拠でも残されていれば、喜んで喧伝されていただろう。だが、そんなものはなかった。ある意味では、スキャンダルの種ではあるのだが──
「俺の本? 全部?」
「ですよね、やっぱり……」
王侯貴族をこき下ろした本や雑誌やパンフレットが、山ほど。弾圧のための資料でないのは、読み込まれた紙と細かな書き込みから見て明らかだった。王を
「どうしますか、これ。処分すべきだという声もあるんですが──」
「いや、引き取ります。出所を他言しなければ良いでしょう」
これほど丁寧に読み込まれるのは──作者冥利に尽きる、というやつではないのだろうか。元の持ち主への感情は別にして、記念に手元に置きたいと思わずにはいられない。
「まあ……それはそう、ですが」
何かしらの手続きが要るのだろう、役人は早足でどこかに去って行った。ひとり残されて、自分の文章を、そこに書き込まれた品の良い筆跡を見ながら、俺はあの日の記憶を手繰っていた。身なりの良い客。危険な思想の作家の居どころを突き止めた。高価すぎる贈り物。
それに、元王のこれまでの言動を。腑抜けた王のお陰で民の成長は摘み取られることなく、一部の貴族の強硬な意見も通らなかった。──腑抜けた、
どうにも心臓に悪い結論が出るのを予感して、俺はひとまず本を閉じて隠し部屋を出た。あの日の招かれざる客は、まだ主とやらの傍らにいるのだろうか。
とある作家の無名のパトロン 悠井すみれ @Veilchen
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