ベンチ

本庄 照

ボランチ

 うちの高校のサッカー部は強かった。部員もたくさんいて、二軍まであって、マネージャーも五人いて、何年かに一回はインターハイにも出た。


 部活は当然厳しかったがそこは思春期の高校生、後から考えたらみんな脳が恋愛に染まっていて、練習の合間を縫ってあちこちで恋が芽生えているような、そんな環境だったと思う。


 サッカー部員はマネージャーと付き合うもの、と思われがちだが、あながち間違いでもない。マネの半分くらいは部員と付き合っていて、立場が上のマネほど、サッカーがうまい部員と付き合っていた。


 私が高二の頃、五人のマネージャーのうち三人は部員と付き合っていた。高三の先輩マネはキャプテンと付き合っていた。顔も可愛かった。残りのうち一人は他の部活の男と付き合っていて、最後の一人、つまり私は彼氏なんていない。顔も微妙だったし、洗濯とかボール拾いとか、雑務の中の雑務をこなす係だった。


 部員の中にも、私と同じく目立たない人がいた。一軍ながらベンチだった向井さん。一軍だからちゃんと技術はあるし、練習にもついていっている。少なくとも身体能力は高い。しかし試合には出たことがなかった。身体能力が高いだけで試合に出られるほど、強豪校のサッカーは甘くない。


「向井さんってなんで一軍なん?」

「俺たちの中でもさ、何人かは向井さんより上なんじゃね」

「高三だから一軍入れてもらってんだよ」

 そんな声も二軍から漏れ聞こえる。私がマネージャーだから聞いてしまっただけかもしれないが、本人の耳に届いていてもおかしくなかった。


 ていうか、届いていた。

「ごめんて」

 休憩時間、向井さんはへらへらしながら二軍の部員の陰口に答えた。二軍の方もギョッとしていたと思う。本当に聞かれるとは思ってなかっただろうし。向井さんの細長い体がヌッと現れた時の彼らの震えようは見ていて気の毒である。

 でも向井さんは、怒るでもなく、嫌味を言うでもなく、細い垂れ目がなくなった笑顔で言った。


 目立たない個性のない人、に、変な人、というイメージが少しだけ追加された。相変わらず向井さんは二軍に舐められ、一軍からは粗雑に扱われ、マネージャーからも半分無視されていた。向井さんは目立たない割にどこか浮いていた。

 その原因に気付いたのは、負けたら即引退の選手権大会の予選の少し前だった。先輩マネに仕事を押し付けられて私が残っていた時に、向井さんが部室に入ってきた。


「忘れものですか?」

「いや、そうじゃないんだけど」

 向井さんはボールを足先でつつきながら椅子に腰かける。変なの。


「向井さんって、なんか監督から腫物扱いされてません?」

 監督がなぜか腫物扱いするから、向井さんは浮いている。それに私は気付いた。

 私は仕事も多くてイライラしていた。だから直球で聞いた。向井さんは全然怒らなかった。

「ああ、ポジション変えさせた負い目があるんじゃないの?」

「向井さんってボランチでしょう? 前は何だったんですか」

GKキーパー

「はぁ……」

 かなり珍しいポジション変更だったから、生返事しかできなかった。


「俺が入部した時、偶然GKが多くてね。そんなにGKいらねーから誰かGK辞めろって監督が言ったんで、俺が代表してGK辞めた」

「嫌じゃなかったんですか」

「そりゃ嫌だよ。俺はずっとGKやってきたわけだし。でもサッカーってチームプレイだからね。誰もやらないなら俺がやるしかないだろ」


「ボランチになっても一軍に入れたんですか!?」

「そんなもんだよ。もともとゴールキックは得意だったし、蹴るのに苦手意識はないし」

 二軍が聞いたら嫉妬で死にそうだ。


「すごいですねぇ」

 夜も更けてきている。暗い部室には私と向井さんだけで、私の声は狭い部室に少しだけ反響して、ちょっと間ができた。

「まあ……。監督が俺にだけ妙に優しくなったし、悪い事ばかりでもなかったよ」

 それでいいと言わんばかりの言い草だが、その特別扱いが部員に伝わって微妙な立ち位置になってしまったわけだ。実際、向井さんの返事は歯切れが悪かった。


「嫌じゃないんですか?」

 二度めの質問。あまり突っ込んだことは聞けないけど、でも聞かざるを得なかった。

「うーん、俺は別にサッカーで飯食うつもりもないし。部が勝てたらそれでいいんじゃない?」

「……GKから変えなかったら、正GKになれてたんじゃないんですか」

「さあね」

 あっけらかんとした声色だった。この声を出せるようになるまで三年。その間に彼が何を思ってきたのか、考えたくもない。

「どっちもできるなんて幻想だからね。少なくとも、俺にはそんな能力はない。今の正GKの浦部も上手いから、結局GKやったところで出られなかったかも」


「私だったら、恨むと思います。監督とか」

「でもさ、部の勝利より自分の満足が優先したら終わりだよ」

 優しい口調で言って、彼の足がそっとボールをすくいあげる。座ったまま片足でリフティングが始まった。


 あなたはいいんですか。自分の意思に反してポジションを変えて、一軍とはいえ、ずっとベンチを温めて。プレイヤーにとって、一切ピッチに立てないというのは、二軍にいることより余程つらい事なんじゃないですか。


 それっきり向井さんと業務外の会話をすることはなく、うちの高校は選手権の予選の準決勝まで進んだ。後半もあと十分、一対〇で勝っていた。四人目、最後の交代枠で、監督は向井さんを指名した。指名されていた時、向井さん本人も驚いていた。スタメンのボランチは普段はもっと走れるのだが、今日は調子が悪そうだった。だから代えられたんだろう。たぶん一軍になって初めて、彼はピッチに立った。


 しかし向井さんの初試合は、順調ではなかった。

 試合終了が迫り、焦った相手チームにサイドから上がられてゴール前にクロスが飛ぶ。至近距離で決めようとしてきたところに正GKの浦部さんが飛び込んだ。相手の鋭いキックがボールに刺さる。しかしボールは浦部さんの顔に直撃して、ロケットのように上向きに吹っ飛んだ。

 ゴールにはならなかった。体を張ったセーブだが、体を張りすぎだ。


 笛が鳴った。プレーが止まる。浦部さんは倒れていて、相手チームもおろおろしていて、一瞬静まり返った。

 彼は立ち上がろうとしたがふらついている。怪我だ。交代しなければならないのは目に見えていた。彼はどよめきの中を運ばれていく。試合が再開する。幸い、今は一点リードしている。

 しかし問題は、交代枠を向井さんで使い切ってしまっていたことだった。ゴールキーパーは替えがいない。ベンチにはいるが交代できない。


 となると、もうフィールドプレーヤーの中からゴールキーパーを選ぶしかない。


「向井! お前GKキーパー入れ!」

 監督がそう叫んだ時、何人の背筋が凍っただろうか。向井さんの事情は、高三生ならだれでも知っている。

「はい!」

 でも向井さんは明るく返事をして素直にゴールに入った。二軍の選手ですら事情を知る選手は向井さんに同情していたと思う。


 こちらは十人、相手は十一人。あと五分前後の試合時間、死ぬ気で相手は殴りこんでくる。一人少ないだけでもじわりと押され、ボールは常にこちらのフィールドで転がり続けていた。


 五分で二本のシュートが飛んできた。一本は苦し紛れのシュートだから向井さんが止める前にサイドバックが止めたが、もう一本は蹴られた瞬間に危ないとわかる。ベンチメンバーが思わず立ち上がるような、悔しいがいいシュートだった。


 あっとゴールポストの前を通過していくボールを、マネージャーは見つめることしかできない。ネットを揺らさないで、と願うも、厳しそうな軌道に絶望してしたとき、ボールに追いつく向井さんが見えた。指が届いた。ボールは軌道が変わって白いゴールポストの上に抜け、転がったところを向井さんがまた押さえに行った。

 

「すっげぇ」

 交代したスタメンの一人が呟いた。みんな同じ気持ちだった。スタンドの部員も、見に来た保護者も、相手校も、みんなわっと声を上げる。

 彼が得意だと言っていたゴールキックが前線に飛んでいく。ハーフラインを超えて、サイドハーフが受け取ってパスを回し始めた時、試合が終わった。

 一対〇。私たちは勝った。


 歓声がどこか遠くに聞こえる。彼が活躍するであろう、最初で最後の試合が今終わった。そう、彼はGKではない。だからこんな特殊な機会でしか活躍できない。だから最初で最後なのだ。予選の決勝に出ようが、選手権に出ようが、彼が活躍できるような機会はもう来ないだろう。


 本当はこんなにできる人だったんだ。三年間、ずっとGKの練習をしていなくても、活躍できるくらい。この能力は三年生かされることなく、ベンチに針の筵を敷いてずっと死蔵されていたんだ。


 嬉しいというより、悔しいと思った。喜んでいるフリはしたけどなんだかぎこちない感じがする。

「どーしたの?」

 渦中の向井さんが、輪から離れて私のところに来た。

「なんかあんま嬉しそうじゃなくない?」

「すみません。私、ちょっと複雑で……」


 頬を膨らませていたら、向井さんは垂れ目がなくなるくらい目をほっそくして、私の膨らんだ頬をつっついてブッと音を出してゲラゲラ笑った。

「勝てたから何でもいいじゃん」

「……それでいいんですか? 私は悔しいですよ。もっと向井さんが活躍できる機会があったのかもしれないって」


「でもさ、部の勝利より自分の満足が優先したら終わりだよ」

 スパイクをしまいながら向井さんはつぶやいた。

「…………」

「俺、昔GKやっててよかった。チームの力になれたし」

 過去形の言葉が胸に刺さる。


 向井さんは監督に呼ばれて行ってしまった。いや、私もついていったんだけど、監督の話なんて全然耳に入らなかった。

 向井さん、あなたのサッカーがもっと見たかったです。善良で誰よりもチームの事を考えていて、こんなタイミングでしか日の目を見なかった、あなたのサッカーが。


 私はいったい誰を恨めばいいんですか。愚かな自分の目でしょうか。

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ベンチ 本庄 照 @honjoh

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