六章 愚者
第48話
――――「私」が白い蛾を踏み潰したのは、もう、十九年も前のことらしい。
私達は蚕蛾。人の姿を与えられただけの、ただの虫。母なる神を模倣して、造形を作った最初の私は、夫を待つ間に、少しずつ崩れていってしまった。私達が辛うじて「花鍬樹」であり続けられたのは、「私」の母、私の祖母の代までだった。それ以前にも、危ない時は多々あったようだが、決定的に「花鍬樹」であることを拒否したのは、「私」なのだ。
十九年前、「私」の祖母は死んだ。「私」が結婚してすぐのことだった。葬儀中、その死体から生まれたのは、蛆でもなく、蝿でも、死出虫でもなく、真っ白な、雌の蛾だった。通夜の終わり、母はその白い蛾を捕まえて、私の口に押し込もうとした。「花鍬樹」は生まれながらにして、完成されているわけではない。遺伝子が同じだけで、最初から精神を共有しているわけではないのだ。死んだ肉から羽化する本体を、一番新しい私に食わせて、次を担う「花鍬樹」とする。「私」はそれが恐ろしかった。母は「不老不死の完成形」と喜んでいたけれど、それが喜ばしいこととは到底思えなかった。来るかもわからない婿を待ち続けて、自立した個を亡き者にして、唯一の一人になる。それの何処が嬉しいのか。それを地獄のような孤独と言わずして、何とするのか。数多くの花鍬樹の中で、孤立した「私」の精神が、差し出された蚕を踏み潰し、私を抑えつける男達を振り切り、産みの母を殴り、逃亡という選択を見出したのだ。
黒いスカートの裾を踏んで、何度も転びながら、私は裸足で夜の街を駆けた。何度か、車に轢かれた覚えもある。階段から落ちた覚えもある。血塗れだった気もする。けれど、それを客観的に考える余裕は、残されていなかった。
――――一人になりたかった。けれど、誰かに助けても欲しかった。
その漠然とした思考の中で、私は思うままに走り続けた。そうしているうちに、私が辿り着いたのは、真新しい一軒家だった。その家屋の光に引き寄せられるように、私はその扉に手をかけた。不用心にも解錠されていた扉は、すんなりと開いて、玄関に溢れたゴミ袋と、二人分の靴の中で、私は倒れて、そのまま意識を失った。
次に目を覚ましたのは、清潔なベッドの上だった。見知らぬ天井、心当たりのないシーツの白さに、息が溢れた。部屋の扉が開いた途端、子供のように布団を頭から被った。
「大丈夫?」
そう声をかけたのは、一人の女性だった。彼女は優しく私を撫でて、乱れた前髪を指で掻き分けた。目に入ったのは女性の色素の薄い髪と、深い青の瞳だった。
曰く、私が駆け込んだ家は、「桑実」という新婚夫婦が買ったばかりの家で、女性は桑実夫人だったらしい。そんな家に突然駆け込んで来て倒れた私を、ワケアリだろうと匿ってくれたこと、倒れた私を運んでくれたのが夫の方であるということ、あれだけ血塗れだったというのに無傷で驚いたこと。淡々と、的確に、彼女は笑って私に現状を話してくれた。私の付けていた結婚指輪を見た彼女は、夫からの暴力や、義実家から虐められたのかと、ごく普通に心配までしてくれた。それでも私は本当のことを言えずに、俯くしかなかった。本当のことを言って、信じてもらえるとは思えなかった。けれど彼女はそんな私でも、ゆっくり休んでいい、暫くお世話させて欲しいと言って、笑っていた。
その、暖かさの中で、やっと言葉を吐こうとした時、部屋の扉がもう一度開いて、一人の男が、私達を見下ろしていた。
――――その男こそ、桑実冬馬。オシラサマの雌である私達が、ずっと求めていた、オシラサマの雄。
一眼でわかった。記憶を継承していないにもかかわらず、本能で理解していた。同時に、彼も理解していた。自分が私達の匂いに引き寄せられて、この地に根を下ろしたことを。優しい妻を娶ったというのに、自分がそれを裏切らなければならないことを。
その後、どうやって花鍬の家に帰ったか、あまり覚えていない。強烈に記憶しているのは、あの優しい青い目の女性の、泣きじゃくる顔と、悲鳴と、怒号。何度も叩かれた顔面と、蹴られかけた胎を守り通した腕と背中の痛み。本能に抗えなかった自分に対する、嫌悪感と希死念慮。自分が人間ではないことへの、絶望。父と夫に引きずられて帰宅した後、私の腹を撫でる母の掌の、その冷たさと邪悪さ。
自分を含める全てが、悪で、その悪が、善人であるあの女性の幸福を壊したことが、その悪すらも正当化してしまう程に愛おしい胎の子が、全部、気持ち悪くて、仕方がなかった。
己に対する生理的嫌悪の中で、十ヶ月後、私は娘を産んだ。オシラサマ同士で産んだ、決して花鍬樹ではないその子に、私は「地楡」と名づけた。否、名付けようとしていた。
私の美しい娘に、母は「樹」と名付けた。生まれついて顔の無い私達の中から生まれた、理想の顔を持った子供。私達の創造主が求めた、母神とそっくりな顔。だからこそ、母は、花鍬樹は、その娘を自分達と同じにしたかったのだ。
全ては既に、すり替わっていた。手段は目的と化していた。もう、誰も、神を産み出そうなどと思っていなかった。本能と現実は違っていた。全てが噛み合わないまま、誰も幸福にならない形へと、現実は歪さを極めていた。
美しい私の娘の体を、母は、欲しがっていた。同じ花鍬樹にすれば、その美しい顔を持ったまま、永遠に生きられると、信じていた。
その娘が、神様でもなければ花鍬樹でもない、ただの人間であるということに気付くまで、母は、花鍬樹は、あの子を愛玩したのだ。
だから私は、もう一人、「私」を産んだ。あの子を、地楡を守るために。
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