外聞 吾亦紅

第47話

 蝶の羽ばたきが、やけに五月蝿かった。顔面を青い蝶に覆われた男は、図々しくも部屋の本棚を乱雑に漁って、一人、文字を追っては、感情が動かされる度に表情を変えていた。合間合間に、私が剥いた林檎を口にして、瑞々しい咀嚼音を混ぜる。初対面というわけではないが、そこまで仲を深めた覚えもない。私が我慢をしてやっていることくらいは、コイツも理解はしているのだろうか。私は頭を抱えながら、表面を拭いただけの林檎を齧った。生まれて十八年、一人で過ごすことの方が多かった私にとって、数時間も他人と同じ空間を共有するのは、一種の苦行に近い。そも、特段人間嫌いというわけでもないのだが、この手の不躾な輩が好きというわけでもない。


「眉間に皺が寄っているよ」


 ふと、本から目を離した波瑠がそう言った。これが挑発であることくらいは、直感でわかった。額に人差し指を置いて、皺を伸ばす。ケロイドの皮膚が、少し痒かった。


「あまり機嫌が良くないね」

「貴方みたいなのがいたら、不機嫌にもなるわよ」


 これは手厳しい。と、波瑠は笑う。青い蝶の隙間から、泣き黒子と白い歯が見えた。彼の動作に合わせて、藍色の鱗粉が、私の顔にかかった。目に入っても一切痛みはなく、これらが全て幻覚の類いであることは、明白だった。


「それに私、待たされるのも得意ではないの」

「僕のことはいくらでも待たせるくせに」

「それは貴方がいつも唐突に来るからでしょ」

「事前連絡はしているじゃないか」

「あのね、窓の外で私に手を振るのは事前連絡って言わないのよ」

「蝶も送ってる」

「送ってるんじゃなくて、漏れてるんでしょ、それ」


 吐息と共に生まれる蝶を、私は握りつぶして見せた。青い煙が、煌めいては消える。常に微笑みを絶やさない波瑠は、煙の先を追う時だけ、口角を下げていた。煙が消えても、彼の口角は下がりきったままで、目線は病室の外に向いていた。廊下からバタバタと足音が聞こえた。同時に、変声期を終えたばかりの声が、病棟内に響いていた。


「――――随分と騒がしいじゃないか、識君」


 踏み込む音と、勢い良く開く扉と共に、波瑠はそう笑った。身を投げるように部屋に飛び込んできたのは、赤毛の青年だった。彼は小脇に少年を一人抱えて、肩で息をしていた。扉に背を預けて、数度の深呼吸をした後、未だ喚いている少年の、その脳天を殴りつけた。頭を抱えて無言で悶える少年を余所に、赤毛の青年は前髪をかき上げる。エメラルドのように深い瞳が、私の半分焼け爛れた顔を映した。彼は私を見て、一瞬、息を呑むと、険しい表情のまま、口を開いた。


「失礼、ノックもせずに。女性の部屋に無断で入るべきじゃなかった」

「構わないわ。説明は貴方の叔父様から聞いていたから。叔父様の力を借りて、全速力で走ったのでしょう? お水でもお飲みになって」

「ありがとう。地楡さん」


 青年はそう言って、備え付けのウォーターサーバーに手をかけた。上がっていた息を、水で冷やす。そうしているうちに、部屋の隅で蹲っていた少年が、顔を上げた。


「何で殴るんですか、先輩」


 前髪でチラチラと隠れるその少年の瞳は、灰に虹を混ぜたように光っていた。彼は赤毛の青年を睨むと、よろめきに歯を食いしばりながら、立ち上がった。


「ショック療法」

「いや、療法って、ねえ、何だってんですか。花鍬さんを病院に連れて来いって言われて、連れて来たら先輩に拉致られて、いつの間にか暗闇を連れて行かれて、病院に戻ったと思えば、ぶん殴られて」


 獣染みた歯を見せて、少年は唸った。彼にはまだ、私が認識出来ていなかった。というよりも、ついさっきまでの出来事で、頭がいっぱいになっているのだろう。筋肉質な青年に衝撃を加えられたのも影響しているかもしれない。


「大変だったわね、林檎でも食べる?」


 そんな言葉を、私は少年に吐きつけた。ウサギの形に整形した林檎を、フォークに刺して差し出す。そうしてやっと、少年は私の顔を見た。一瞬、肩を震わせると、彼は口を開けて数秒、固まってしまっていた。私が右頬だけを動かして微笑むと、ハッと正気に戻ったように、少年は歯を食いしばった。


「い、いただきます」


 少年はそう言って、恐る恐る私の手からフォークを取った。化け物でも見るような目線は、何度向けられても、慣れるものではない。きっと悪意はない。わかっている。ただ、醜いものを見て、戸惑っているだけなのだ。目を背けずにいるだけで、この少年が両親と同じ優しさに満ち溢れた存在であることは、明白だった。


「初めまして、桑実藤馬君」


 林檎を半分口に入れたのを見計らって、私は少年にそう笑いかけた。


「何で僕の名前を?」

「父さんから、話は聞いていたから」


 ひゅっと、藤馬は息を舐めた。混乱しているのだろう。仕方のない事だった。私は表情を崩さないままに、前髪を掻き上げた。

 焼け爛れた顔面の右半分、その中に埋まる眼球。その瞳の色は、彼と同じ色灰。火で濁った右の視界で、藤馬を見る。未だ何も理解出来ない彼に、私は目を細めて見せた。


「私は花鍬地楡。花鍬樹の種違いの『姉』で、貴方の腹違いの『姉』」


 黒い瞳に守られた左の瞳は、藤馬――異母弟である彼の、母親に似た目元を映す。揺れ動く眼球が、彼の動揺を指し示していた。


「いい事、藤馬。今から言うことを、よく聞いてちょうだいね」


 呆然と立ち尽くす彼の顔を、両手で引き寄せる。瞳を合わせる。私は、藤馬の静かな吐息を吸って、口を開いた。


「私が生まれてしまった経緯と、貴方が花鍬樹に引き寄せられる、その意味を」


 古い火傷がただ痛んだ。けれど私は、引き攣った皮膚が割れようとも、衰えた頬の筋肉が震えようとも、語らねばならない。

 熱気で焼かれた肺を、無理矢理に膨らませる。何処かで、私の母が、妹が、同じことを口にしようとしているのが、聞こえた気がした。

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