第49話
もう一人を産もうとしたのは、元はと言えば、母の命令でもあった。地楡が一歳になる頃、彼女が怪異ではないことが、明白になっていったからだった。怪異を見ることは出来ても、私達と同じような見え方はしていないらしかった。決定的だったのは、母が、手元に残していた祖母の蛾を、地楡の口に突っ込んだことだった。地楡は私達の性質を受け継ぐどころか、拒絶反応を示したのだ。いくら美しかろうとも、母にとっては、自分が入れない器に価値はなかった。母は、娘にも私にも、独立した個を認めなかった。再び大きくなっていく胎に、母は期待していた。地楡が美しい顔を持って生まれたことが、冬馬に由来するのか、それとも花鍬樹となることを拒絶した私というイレギュラーに由来したのか、定かではないが故だった。
地楡が二歳になる頃、風の噂で、冬馬が男の子を産ませたと聞いた。その母親が小さな少女であったということも、かつての妻だった人が、人知れず街から消えてしまったことも、そこで初めて知った。
冬馬の息子ということは、きっと、その子もオシラサマの雄ではあるのだろうと思った。ただ、地楡が神様にはなれなかったことからして、きっと、彼もまた少しだけ人に近づいているのだろうとも予測出来た。私達は怪異だ。怪異は人間が産み、維持する。私達には存在を固定する力が無い。少しずつ自分に似た何かを産み続けて、変わっていく。花鍬樹がその不死性を望むようになってしまったように、桑実の男も、変わっているのだと、実感出来た。ただ、怪異としての身勝手さだけは、ずっと健在だということも、冬馬の噂を聞いて、飲み込めてしまった。
そうして私は、また花鍬樹を産んだ。顔の無い蚕の中身のような赤子を、地楡の「姉」として、産み落としたのだ。「花鍬樹」とは、花鍬家の長女に付けられる名前であると、その整合性を取るためだけに、母は二人を入れ替えてしまった。
度々訪ねて来る学者だの、怪異憑きだのと、理知的に、さも常識的な女性として対話する母が、怖かった。その母が、ずっと張り付いている生活が、苦しかった。そのうちに、自分が母と同じになることが、怖くて仕方がなかった。祖母の蛾は未だ、母が持っていた。その時はまだ、私が地楡を育てているからか、手を出すことはなかったが、新しい花鍬樹が物心つく頃には、食べさせるつもりなのだろうとは、何となく、感じていた。拒否が出来ないうちに同化させてしまえば良いのだと、私が脱走したことで、母は理解してしまったのだ。
――――だから私は、私を焼いてしまおうと、そう、思い至ったのだ。
当時の母は既に新しく子供を産むことなんて出来る身ではなく、数年後に迫る死期に、焦りを見せている頃だった。私達が死ねば、何もかも終えられると、地楡を自由に出来ると考えつくのは、時間の問題だった。燃やせば蛾は生まれない。地楡は蛾を飲み込んでも拒絶するだけ。なら、手っ取り早く、燃え死ぬのが良いと思った。
父と夫、母の目を盗んで、ガソリンを買い付け、仏壇のライターを持ち出した。気づかれる前に、全部終わらせたかった。だから、私は、地楡が、ずっと、小さな私の、妹の可愛らしい洋服を羨ましがっていて、ついにその日、家族の目を盗んで着ていたことに、気づけなかった。
ライターの先で火花が散った後、薬品の入った目を擦る地楡の顔に気づいて、何とか火が燃え移らないように突き飛ばした。その後のことを、そこで焼け死んだ私は、何も知らない。
「――――かつての私が、つい一昨日まで知っていたのは、ここまで」
そう言って、私は一度、小さくため息を吐いた。語り口に、自分が混ざっていることには、既に気づいていた。眉間に皺を寄せている韮井先生も、とっくに理解しているだろう。だからこそ、私とある疑問を共有しているはずだ。
「で、それで何故、お前が今、混ざっているんだ?」
先生の言うことは最もだった。便宜上、かつての私を母としよう。母と私が混ざる理由は、私にもわからなかった。母は焼け死んで、蛾を、本体を生み出すことはなかったはずだ。もしも一昨日の私が踏み殺した蛾が母だったとしても、口に運んで、飲み込んだ覚えはない。
「それについては、私からよろしいかしら」
ふと、背後から、言葉が刺さる。それは、静かで穏やかな、けれど一種の怒気を含んだ、大人びた少女の声。振り返れば、顔の半分を焼いた黒髪の少女が立っていた。彼女を支えるように隣に立っているのは、藤馬君。それを後ろで気遣うようにしているのは、識君と溝隠君の二人だった。私と冬馬が無意識に手を伸ばしたのを、地楡は睨みつけるだけで制止した。黙って話くらい聞けないのかと、目だけで訴える。先生が「話せ」と溢したのを切っ掛けに、彼女は微笑んだ。
「人の肉体というものは、しっかり焼いても、骨が残るものでしょう。ましてや、野で焼いたくらいじゃ、肉だって残ってしまう。花鍬樹の精神の継承を行うのが、火葬荒れる前のその身から出る蛾、あるいは怪異だとするのならば、その肉から『継承する蟲』を加工出来ないかと、考えたのよ」
そう言って、地楡は爛れた手を開いた。ずるりと百足が這い出て、指の隙間から零れ落ちる。口の中で、ジャリジャリとした食感が思い出された。私の足から這い上がり、私の口に入っていった百足。その色、その形は、今目の前で湧き出るそれと同じだったのを、私は鮮明に記憶していた。
「頑張ったのよ? 蟲の作り方、蟲の発生条件、継承の精度……沢山材料を買ってもらって、技術だって沢山集めて、練習して……ねえ、父さん?」
地楡の口元が綻ぶ。だが、その目は笑っていない。彼女の行為に、私達への善意は無いことはわかった。実の娘から目を逸らす冬馬を、あり得ないものを見る目で見ているのは、彼の息子の藤馬だった。この姿を見せるためだけに、先生と地楡は彼をここに呼んでいるのかと思うと、その邪悪さが、妙に歯痒かった。
「理論も技術も完成したのは、去年の今頃。屋根裏で保管していた母さんの体を使って準備したのが、半年前。そして一昨日、ようやく、貴女の中に、蟲は入り込んだ。だから貴女は、今、こうして、混ざっている」
手から溢れていた百足を、彼女は踏み殺した。床に擦り付けられる百足の塊は、何もなかったように、煙となって消えた。口を抑える。百足を噛み砕いた奥歯が、痒みにも似た何かに汚染されていた。
「――――だが、お前にも誤算が、推測の漏れがあった。そうだな」
一言、そう声を上げたのは、今まで黙って聞いていただけの、先生だった。
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