四章 夢

第29話

 日が落ちてしまいそうな頃になって、やっと、識君の足音が聞こえた。彼はスコップも何も持たず、スマホを周囲に向けていた。ふと、私達を視認すると、そのままの速度で、こちらに近づいた。彼の後ろには、先輩達と、青い蝶の塊が動いていた。


「ここまでの道のりは記録しておいたよ」


 識君がそう言ってスマホを渡すと、先生は「ご苦労」と呟いた。そんなやり取りを前に、先輩達は枯れ木と、揺らめく赤い布を見上げて、阿呆らしく口を開けていた。その隣で、ずっと、蝶の塊だけが、私を見ていた。それが人間だと気付くのに、数秒を要した。


「久しぶりだね、花鍬さん。その、この前に引き続いて、今回の不法侵入については、本当に申し訳ない。僕からも謝らせて欲しい」


 金属が擦れるような蝶の羽ばたきの中で、青年の声が聞こえた。久しぶりと言われても、私はこんな、蝶まみれの男を知らなかった。否、もしかしたら、以前会ったことがあるのかもしれないが、今の状態では、過去出会った人物の、どれかなど、理解は出来なかった。


「ごめんなさい。貴方、誰?」

「え? 覚えてない?」

「人の顔を覚えるの、苦手で……」


 蝶の青年は、私の言葉を聞くと、肩をすくめた。残念がるような表情は、私には見えなかった。


「溝隠だよ。溝隠波瑠。その……自分で言うのは恥ずかしいんだけど……入学初日に、君に振られた男だよ」


 その言葉で、ようやく、記憶の一部を脳から引き摺り出す。そうだ、あの日、唐突に私に声をかけて、付き合って欲しいなどと言った男がいた。高い背丈と、童顔に泣き黒子。柔らかそうだが色素の薄い髪。はっきりとしたものは思い出せないが、確かに、存在はしていた。ただ、そんな特徴の全てが、今は青い蝶に阻まれて、何も見えなくなっていた。


「度々迷惑をかけてしまって、本当にすまない」

「迷惑は迷惑だけど……今回は先輩に着いてきただけなんでしょう。それに私、特に怒ってるわけでもないし」

「優しいね」

「違うわ。貴方達に興味が無いだけ」


 廃墟と勘違いして入り込んだ人間に感情が湧くほど、今の私は暇ではない。顔も見えないこの青年に、特段大きな感情は持てなかった。

 ただ、そんな私を見て、彼が寂しそうにしていたのは、理解出来た。顔よりも、肩や仕草に感情が出る方なのかもしれない。波瑠君は、確かに「そっか」と笑っていた。


「ねえ、花鍬さん、君、もしかしてだけど……」


 ふと、波瑠君は小さく口を開けて、私の耳元に声を寄せた。だが、その瞬間、私は腕を引かれて、彼から一歩遠のいた。体を屈めたままの波瑠君の目線に、私も目を向けた。私の腕を引いたのは、紛れもなく、綴だった。彼女の目線もまた、波瑠君に向けられていた。どちらかといえば、睨んでいるという表現が正しいかもしれない。


「……こんにちは、菖蒲さんで良いのかな」


 波瑠君がそうやって笑いかけると、綴は私の手をもう一度引いた。そのまま、何も言うこともなく、先生の側に駆け寄る。先生は識君と話し込んでいて、特に私達を気にしてはいなかった。


「どうしたの、綴」


 私が綴に耳打ちすると、彼女は溜息を交えながら、口を開いた。


「どうしたのって、アンタ、あれ、入学式で突然話しかけてきた馬鹿じゃない」

「私もさっきまで忘れてたけど、そうだね」

「私が言うのも何だけど、何でそんなこと忘れてるのよ。あのね、一回振った男が、偶然かもしれないけど、家の場所まで特定してきたの。ちょっとは危機感を持ちなさい」


 快活にものを言う彼女の顔を見て、胸を撫で下ろす。菖蒲綴は未だ健在だった。それが何より嬉しくて、自然と声を漏らしてしまった。


「笑ってる場合じゃないでしょ。天井裏から変質者が出てくるわ、死体が誰かに埋め直されてるわ、アンタ、今、凄い危ない状況なのよ」

「わかってるよ」

「わかってるなら、もうちょっと慌てなさいよ」

「慌てても、どうせ何も変わらないし」

「そういうことじゃなくて……」


 呆れ返って何も言わなくなった彼女に、私は微笑んでしまった。誰かが死んだわけでもない。特段、困ったとは思っていなかった。今一番気がかりなのは、綴が消えてしまうかもしれないという事と、今後も蟲が湧くという二つだけだった。


 ――――蟲に襲われるくらいなら、そのうち慣れるかもしれない。

 人を殺した過去を持っても、平気な顔で生きていけたのだから。


 ふとそんなことを思い立って、私は目を閉じた。瞼をもう一度開けば、綴がいた。不自然な楽観が、脳髄を泳ぐ。


「花鍬、死体を掘り起こすのはまた次の機会だ。それなりの道具と人が必要だろう」


 背後にいた先生が、そう声を上げた。振り返って、先生の顔を見た。彼の表情は無機質だった。


「菖蒲と馬鹿共は私達が送り届ける。お前は今夜、さっき教えた住所に行け。この家には暫く戻らない方が良いだろう。商店街で下宿をやっている知人がいる。連絡はしておくから、今日からそちらに身を寄せろ。これがそっちの住所だ」


 そう言って、先生は私に一枚、名刺を見せた。硬い小さな紙片を、両手で握る。冷たさが手指の温度に滲む頃、先生は再び口を開こうとした。


「……あの、先生」


 ことを進めようとする先生に、私は言葉を置いた。彼は「なんだ」と静かに口を閉じた。


「先生は、保護者の……父の元に戻れ、とは言わないんですね」

「どうせ、あまり良い関係ではないんだろう。休まる場所でないなら、怪異について知る輩の元にいた方がマシじゃないか」


 先生はやはり、聡い人だ。父子関係が良好か否かと問われれば、そもそも良いだの悪いだのと言えるほど、関わり合いになっていないというのが事実だった。父は私より妹と、母のことで頭がいっぱいの人だった。現状のまま、父の元に帰るのは、状況を悪くする気がするのは、確かだった。


「それに、花鍬家は誰一人信用出来ない。お前も含めてな」


 先生が付け足した言葉を噛み締めながら、私は未だに手を握る綴の手を振り解いた。

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