外聞:識

第28話

 叔父と別れた僕達は、花鍬邸の裏を淡々と歩いていた。幸い、織部先輩も生成先輩も、こちらに反抗する意思は無いようだった。きっと、本当に、悪意など無いのだろう。不法侵入の件だって、奇襲を仕掛けなくとも、声をかければ良かったのかもしれない。今の彼らは、ただ置いてきてしまった後輩を心配する、良き大人のように見えた。


「そういえば、あの花鍬って子、入学式の日に話題になってた子だよね?」


 木々がまばらになった頃、ふと、生成先輩がそう言った。彼女は沈黙に耐えるのが難しい人種らしい。僕は「そうですね」と相槌を打った。


「ということは、あの子が溝隠の失恋相手ってことじゃない。尽く運の無い男ね、アイツ」


 独り言のように、生成先輩は言葉を並べる。入学式と失恋。この単語で浮かぶ男子学生がいた。


「花鍬さんに入学式で告白した男子学生って、その溝隠君なんですか」

「そうよ。知らなかった?」

「花鍬さんの方がやたら話題に上がるので……良くも悪くも。だから、振られた方には意識が向いてなかったというか」


 学年一の美女に入学初日で告白して振られた、などという情けない男の名前を、今まで覚えていなかったのは、確かに不思議だった。それだけ花鍬さんは人の目を惹きやすいのかもしれない。もしくは、溝隠というその男が、印象に残らない何かを持っているのか。怪異などという存在がいるのだ。どんな事実があっても、受け入れて考えるしかなかった。

 だが、その答えは、僕が考える意味もなく、目の前に現れた。


「溝隠君!」


 織部先輩が、先頭で大きく手を振る。その奥にはアスファルトで舗装された国道が見えた。ポツンと佇む古い軽ワゴンは無人だった。それらを背景に、一人の青年が、こちらに向かって手を振っていた。


「先輩! 遅いですよ!」


 明るい聞き取りやすい声だった。だが乱れている。彼の言葉に、集中出来なかった。不自然な程、溝隠という青年の言葉は、空虚に聞こえた。


「ごめん。電話で説明した通り、色々あってさ」

「放置されるのは慣れてますけどね。僕、車中泊でもさせられるのかと思いましたよ」


 織部先輩にくどくどと言う彼は、年相応の子供らしさと大人らしさを兼ね備えていた。振り回されがちな後輩という印象だった。

 あるのは、そんな印象だけだった。身長は僕より少し高いくらいで、細身のように見えた。カジュアルな服装。柔らかそうな髪は色素が薄い。目元は温和そうで、泣きぼくろが目に止まる。多分、美形と呼ぶにふさわしい、女性受けしそうな姿だった。だがそれらの像も、上手く脳が咀嚼してくれなかった。輪郭を見出そうと、見方を変えても、あまり変化は無かった。


 ――――影が薄い、というよりも、「認識がし辛い」というか。


 認識の変動。それだけで、僕の中では、小さく結論が芽生えていた。

 僕が一歩体を前に出すと、彼もまた、僕を見て微笑んでいた。


「こんにちは、韮井君だっけ。溝隠みぞかくし波瑠はるです。この度は先輩がご迷惑を」

「……こんにちは。こちらこそ、織部先輩の腕を折かけちゃったし、お互い様……とも言えないか。僕じゃなくて、花鍬さんに謝ってよ」


 かなり気まずいだろうけど。と、僕が付け足すと、彼は目線を逸らして、苦く笑った。


「ま、まあ、あれだ。本当に、確認を怠った僕達が悪いよ。申し訳ない」


 そう言って、溝隠は僕の肩に手を置いた。それを払い除けようと手を置く。すると、肩の骨を掴まれる。一瞬の痛みに戸惑っていると、溝隠は暗い目を僕に合わせて、笑っていた。


「それで……君は目が悪いのか? それとも、良すぎるのか?」


 柔らかで小動物にも似ていた印象が、冷たい硝子の様になって、僕の耳に刺さる。思わず目を逸らして、先輩達の方を見た。彼らは既に僕達のことは眼中になく、車をどうするかなどと話していた。僕達の変化に、何も疑問を持っていない。溝隠の変化は、僕だけが理解しているようだった。


「後者かな。そういう君はどっちだ?」


 首筋が冷える。泥が僕の喉を摩っていた。気道が細くなっているのがわかった。だがそれが、ただの幻覚なのもわかっていた。鼻で、ゆっくりと息をした。見えているもの、感じていることが現実とは限らない。印象は印象以上になり得ない。

 僕は溝隠の肩を掴み、彼の顔を見上げた。その顔は表情を仕舞い込んでいて、人形のようにも見えた。


「僕は、君よりもよく見える方だと思うよ。君、僕がぼんやりとしか見えていないだろう」

「さっきまでは」

「なら、そうだな。少し、僕の輪郭に注目してくれないか」


 数秒を置いて、彼は僕から手を離した。同時に、僕も一歩、身を引いた。再び溝隠という存在が、揺れた。認識が途絶え始める。だが、一瞬、彼の輪郭が震えて、固まった。千切り絵の空白を埋めるように、青い何かが彼の存在を固めていく。


「蝶?」


 青い蝶が溝隠の周りに浮いていた。蝶に覆い尽くされた顔は、見えなくなっていた。だがその向こうで、彼が笑っているのだけはわかった。


「こいつらを隔てているから、見えづらいのさ」


 彼を飾る蝶は、一瞬でも気を抜けば消え入りそうに思えた。それに包まれている溝隠が、認識を薄めているのも、少し納得がいった。摩り硝子の向こうで話をしているようなものだ。存在は何となく理解できても、鮮明ではない。


「けどね、こちらからはよく見えるんだ。マジックミラーみたいに」


 そう言って、彼は自分の目を指差していた。蝶が一匹、ふわりと浮いて、彼の暗い目が見えた。


「それで、花鍬さんに声をかけたのか」

「入学式の時、前にいたからさ。気になって、彼女」


 口振りからして、溝隠には、何かが見えていた。僕が見えなかった花鍬樹の何かが、彼の目に映っていたはずだ。

 溝隠は自分のうなじを指差して、歯を鳴らした。


「彼女の中から、蚕が出ていくのが、凄く、親近感が沸いてしまって」


 そう言う彼は、困ったように眉を下げていた。

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