第30話
全員が車両でそれぞれの帰路に着く中、私だけが山道を歩いていた。識君に支えられながら車に乗り込む綴を思い起こす。何度か意識を飛ばしているのが気にはなっていた。ただ、見送る私と目を合わせた時は、不思議にも穏やかな顔をしていた気がした。そんな彼女の表情を脳裏に焼き付けていると、砂利道の終わりがあった。
アスファルトに靴裏をつける。歩きやすさと、足裏の軽さが心地よかった。先生から渡された住所には、商店街を通って向こう、駅の裏側が示されていた。
記憶が正しければ、そこは高級住宅街の入り口で、どこぞの芸能人だのも住んでいる地域だった。そんなところで、怪異を研究している人間がいるというのだ。違和感があった。だが、考えてみれば、怪異などというものは、国から認められ、研究費が何処からか出るような研究ではないのだから、個人の資産に頼る部分も多いのだろう。高級住宅街に住む人間が、怪異に侵されているのであれば、私費で研究していてもおかしくはないのかもしれない。
ふと、目の前を白い花弁が横切った。顔を上げてみれば、街路樹として植えられている桜が、散り始めていた。その側にあった街灯が、パチという小さな音ともに光り出した。周囲は既に暗い。点々と道を示す街灯の近くには、幾つもの光る窓があった。だが、窓から漏れる光よりも、街灯の方が明るいのだろう。夜行性の虫達はしきりに街灯に体をぶつけていた。歩けば歩くほど、夜は更けて、蛍光灯に焼かれた羽虫の死体が路上に転がっていく。
街灯が駅前のネオンに負ける頃、足元には、一匹の蛾が倒れていた。焼けた触角を痙攣させながら、六本の足をあちらこちらに向けて蠢いていた。茶色く、枯れ葉になら紛れ込めそうな翅は、人工物の中では目立っていた。
私はその蛾に、つま先を合わせた。そして、ゆっくりとアスファルトと靴裏の溝で、胴を磨り潰す。翅と触角が足裏から漏れて、僅かに痙攣していた。卵を踏みつける感覚は無かった。体液が靴裏の隙間に入り込んでいるのは、理解していた。私はそれをビルの壁で拭いて、再び歩き出した。喉の奥にあった閊えが、少しだけ溶けた気がした。
駅の中を通り、裏側へと向かう。表通りの喧騒とは異なって、駅裏は静かで冷たい光に満ちていた。家族団欒の時間なのだろうか。僅かに漏れる肉魚、米の炊けた匂いが鼻腔をくすぐった。空腹の苛立ちを伴って、足が早くなっていく。ここで唾液を漏らそうものなら、自分の品性を疑う。示された場所は近かった。唾を飲み込んで、踵をつけずに歩いた。そうして、私が辿り着いたのは、小綺麗なマンションだった。ロビーを見る限り、セキュリティもしっかりしていて、家賃も高いだろうことがわかる。だからこそ、その先を行くことが、躊躇われた。厚い硝子は私が前に立っても、動きそうにない。先生から渡されたメモには、しっかりと部屋番号が書かれていた。
――――先生の方から連絡を入れてくれると言っていた、けれど。
すれ違っていたらどうしようかと、思考が回る。それでも、ここで立っているだけでは、何も始まりはしない。縋るしか方法はないのだ。数テンポ遅れて、自動ドアの隣にあったダイヤルへ、番号を入れていった。呼び出しボタンを押す。ピンポンと音がして、ダイヤルの上にあったカメラの隣が、赤く光った。
『――――誰?』
数秒を置いた後、スピーカーからは、そんな声が聞こえた。僅かに喉をゴロゴロと転がすような、寝起きによくある音声が混じっていた。
「あ、えっと、花鍬、花鍬樹と申します。韮井先生の紹介で……」
私がそう言いかけると、視界の端で重々しく硝子板が動いた。
『入れ』
無機質な声には、少々の苛立ちを含んでいた。その妙な威圧感に押されて、私は急いでマンションの中に入り込んだ。エレベーターのボタンを押して、部屋を目指す。重たい鉄の動く音が、脳を揺らした。重たい瞼を、一度だけ閉じる。次に開けた瞬間には、鉄の箱は口を開いて私を待っていた。その中身はよくあるエレベーターの内装で、大きな一枚鏡が背側に貼られていた。その鏡に一歩近づくように、エレベーターに乗り込む。フロアの番号を押して、ワイヤーが私を上へと連れていくのを待った。
ふと、エレベーターの扉が閉まっていないことに気づいて、閉のボタンを押す。が、その直後、目線の先に、赤いハイヒールを見た。マンションの居住者が一人、帰ってきたのだろう。私は急いで開のボタンを押した。開いた鉄扉の間に、ハイヒールが入り込む。視界の隙間で、黒い髪が上下したので、私も小さく会釈した。女の手が、私の前に伸びて、屋上のボタンを押した。
その手が濡れていることに気づいたのは、エレベーターが動き出した時だった。
海の匂い。魚が腐ったような、苦味を含んだしょっぱさが、鼻を通じて口に広がる。下の裏から唾液が溢れる。何度も喉を鳴らす。溢れる唾液は、塩味への拒絶反応だった。海水が鼻から口に入り込んだような痛みが、頭痛に変わる。心臓の動きに合わせて、指すような痛みが広がった。その心拍も、次第に増えていって、痛覚を刺激していく。
息が出来なくなった頃、軽いチンという金属音が、痛む頭にとどめを刺した。フロアに到着したことを知らせる鐘が、こんなにも不快で、安寧を与えてくれるとは夢にも思わなかった。開いた鉄扉の隙間から、幾匹ものフナムシが走り去っていく。そのうち一匹を踏み殺す。扉が開き切ったと同時に、閉のボタンをすかさず押して、エレベーターから駆け出した。私が三つの部屋の前を走り切る頃には、扉が閉じる音も聞こえていた。好奇心が、焦燥感が、私に後ろを見ろと訴えかける。
一瞬だけのつもりだった。何も考えずに、ただ、体をエレベーターホールに向けた。
目前、眼孔から大量のフナムシが漏れ出す女が、微笑んでいた。
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