第13話

 突然の行動に、自分でも理解は出来ていなかった。多分、これも藤馬君と同じ「そうするのが当たり前だと思ったから」に近しいものだと思う。ただ、彼の腹の蟲がこれ以上出てくるのは、何かいけないことだろうとは、直感でわかった。

 鼻息が指にかかる。少年らしい疲れの見えない目元が、瑞々しい果実のようだった。


「花鍬さん」


 ふと、後ろから桑実が声を上げた。彼女は妙に落ち着いていて、体を張って私の行動を止める様子もなかった。


「一回離してあげて。もう大丈夫だから」


 そう言われて、手を下ろす。見上げる藤馬君の口はきちんと閉じていて、蟲も、さっぱりと消えていた。

 鼻から、粘度の高い鉄分が溢れ出る。今度は自分の手で、藤馬君は鼻を押さえた。


「興奮するとたまにこうなるの。驚かせてごめんなさいね」


 桑実はそう語りながら、藤馬君の顔をティッシュで拭いていた。彼女の慣れた手つきを目で追う。下げた手が熱い。私の体温も下がっていった。どうやら私も、彼と同じくらい興奮していたらしい。


「すみません、花鍬さん。落ち着かなくて」


 ティッシュを赤く染めながら、藤馬君はそう眉を下げた。私は言葉を飲み込んで、首を横に振って見せた。


「昼間の方が落ち着かなかったから、平気ですよ」

「何か、あったんですか」

「私、その、見えるようになったの、今朝からなんです」


 一瞬、藤馬君の動きが止まった。お互いに、理解が出来ていない部分が、露呈したのだ。二時間も前まではただの赤の他人だったのだから、当たり前の話ではある。ただ、噛み合わなかった言葉の、その違いを、彼は今し方理解したのだろう。

 固まった私達の背に、同時に衝撃が走る。藤馬君と同じ方向を見れば、桑実が私達を交互に見ていた。


「そのお話は車に乗ってからでも良い? 風邪ひくわよ」


 多少乱雑な、だがしかし温もりのある声色で、彼女は言った。私と藤馬君は一度顔を見合わせて、車両に乗り込んだ。頭では助手席に座ろうとしていたにも関わらず、私の体は、勝手に後部座席の右、藤馬君の隣に座っていた。

 私達が乗り込んだのを確認した桑実が、アクセルを踏んだ。緩やかな渋滞に巻き込まれて、ゆっくりと先に進む。あまり動かない景色に、無言は耐え難い苦痛だった。


「花鍬さんは、今朝、見えるようになったんですよね」


 そんな沈黙を裂いたのは、藤馬君だった。


「怪異を見るようになったのが、今朝だと」

「そういうことになります」

「特殊な見え方をすると言っていましたけど、その、特殊というのは一体?」


 彼が放つ問いの連続に、全てを話す他、道がなかった。私は許される限り、自分が理解出来ている範囲で、今日のことを話した。怪異が蟲で見えること、オシラサマというものが関わっている可能性のこと、私の名前と血筋のこと、蚕のこと。

 私が言葉を流す間、彼はただ聞いていたというよりも、思考しているようだった。話の中で、確認を取ったり、裏付けを求めていた。韮井先生の時とは違う。好奇心のような、少年らしい素直な感情を、隠しもせずに顔に出す。その姿は、先程までの少し背伸びをしたような、大人びた彼を打ち殺すようだった。


「――――……成程、不思議というか、色々と不自然な事ばかりですね」

「不自然ですか」


 そも、怪異などというものが見えている時点で、不自然もクソもないのではないか。という言葉を頭の隅に置いて、私は彼の言論に耳を立てた。


「規則性があるとまでは言いませんが、今まで『見えなかった』理由と、今朝『見えるようになった』理由には、人為的な要素がある気がします」

「それは何かそういう事例があるんですか」

「いや、そういうのではないんですよ……うーん、強いて言うなら、勘ですかね」


 私が「勘?」と聞き返すと、藤馬君はこめかみに指先を立てて、唸った。数秒、口を無音のまま動かした後、彼は溜息と混ぜて、笑った。


「僕が知っている『怪異を見えなくする方法』を元にするなら、自然に起きたことではないんだろうなって、思うんです」

「そんな方法があるんですか」

「怪異って、強い方が弱い方を塗り替えるっていう法則があるんですよ。だから、話が通じる強い怪異を連れてきて、塗り替えて貰って……『強制的に認識を変えてもらう』というのは、一つ、やり方としてはあります」


 かなり乱暴ですけどね、と、藤馬君は付け足した。先生も似たようなことを言っていた気がする。だが、それを解決策として提示してこなかったのは、その方法があまりにも現実的ではないからだったのだろう。その強い怪異との会話の無意味さが、話をつけるという難しさが、未だそれらに対して無知である私にも、感覚としてわかった。


「もしもそれを、その、花鍬さんが今朝踏み潰した蚕がやっていたとしたら。それを誰かが頼んだとか、もしくは蚕の怪異そのものが、貴女に対して意識的にそれを行ったとか。そう考えるのもおかしくはないんじゃないですか」


 淡々と、彼は答えを垂れ流す。理解は出来た。だが、その誰かだとか、あのクシャクシャに潰れた蚕が何故そんなことをするのだとか、足りない部分が多い。故に、納得と解決には至らない。私がそうやって黙っていると、藤馬君は更に続けた。


「それに、怪異を認識出来なかった花鍬さんが、怪異を殺すというのも変な話じゃないですか」

「道に落ちた蛾を、気付かずに殺したのが、変ですか」


 私の問いに、藤馬君は「ふむ」と鼻を鳴らした。言葉を選び切った上で、彼は再び口を開いた。


「認識の有無は、存在の有無です。つまり、認識出来ないものを、貴女にとっての『無』を、殺してしまうなんて、不可能なんですよ」


 そう彼が応答したと同時に、車は一軒家のガレージの中に入っていった。暗い半室内で、僅かに入り込んだ街灯の光が、少年の淡い色灰の瞳を照らしていた。

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