第12話

 藤馬君の喉の奥で蠢く蟲は、彼の意志を反映するように、嬉しそうに身体をくねらせていた。一匹が舌の上を転がって、口外に吐き出される。咄嗟に、藤馬君がその口を手で押さえた。


「すみません、見えましたか」


 手の向こう側で、彼はそう言った。その自覚は、確かに、桑実藤馬が怪異に関わっていることを示していた。きっと、私の表情は曇っていたのだろう。彼はすみませんとだけ呟いて、口を閉じた。喉仏が上下して、彼が何かを飲み込んだのだということだけはわかった。行きましょうと、桑実が歩き出す。不安げな表情で、藤馬君もそれに続いた。吐き出すことの叶わなかった言葉を、その場に置いて、私は彼らの背を追った。

 早足で辿り着いたデパートには、地下の食品売り場へ向かう客か、最上階付近のレストラン街に入る客しかいないようだった。地下の食品売り場に降りたのは、数年ぶりのことだった。品数は私の幼少の記憶よりも増えていて、肉肉しい惣菜よりも、サラダやパン屋などのヘルシー志向の店が多くなっている気がした。

 私がキョロキョロと周囲を見渡していると、桑実が立ち止まった。彼女が見えていたのは、和食の惣菜で、肉じゃがやカレイの煮付けを指していった。手際よく店員がそれらをパックに詰めていく。


「花鍬さんは何か食べたいのある?」


 唐突に、桑実がそう言った。二秒ほど、脳の動きが止まった。


「桑実さんと同じのがあれば、大丈夫です」


 頭の中に残っていた遠慮が、私の口を借りて、そう答えた。


「藤馬は?」

「僕はあっちの店のやつ」


 隣でそう言う藤馬君は、口を手で隠していた。私が驚いてしまったのが、余程効いたらしい。金銭のやり取りをする桑実を見ながら、私は藤馬君に耳打ちした。


「ごめんなさい、さっきは驚いてしまって。突然でびっくりしただけなの。今はもう大丈夫だから、気にしないで」

「え、あ、そんな、こちらこそ、気を悪くさせて、すみませんでした。その、花鍬さんは、普通の人だと思っていたから、見えないものだと思って」


 普通の人。彼は私をそう称した。

 ねえ、それって。そう声をかけようとした瞬間に、桑実が次の店に移り始めた。私達は一度口を閉じて、彼女の後ろを取った。


 そうして、問いを藤馬君に渡せないまま、デパートを出た。三人分の料理を持って、駐車場へと急いだ。駅前はより人を増やし、アルコールの臭いも混じり始める。一日を過ごした人間の体臭は、独特の酸味を含んでいた。それらが混じり合って、少し、額の前の方が重くなる感覚があった。私の足元のふらつきに気づいたのか、藤馬君が小さく笑った。


「大丈夫ですか」

「人混みは、久しぶりで」

「久しぶりじゃなくてもあまり良い気分はしませんよね、人間の塊は」

「それは、怪異が見えているから?」


 私のふとした問いに、藤馬は目を見開いた。そうしてすぐに、穏やかに目尻を下げると、また手の中で笑った。


「僕は生まれつき見えてるので、そう考えたことはなかったですね。見えない方が、楽なのかもしれませんが」

「生まれつき、見えるものなんですか」

「怪異が見えるのは怪異に憑かれた人間だけ……とお思いで?」

「えっと……他には、怪異になった人間も、とは、言葉でだけ」


 藤馬君は、またにんまりと口の端を上げた。綺麗に笑う少年だと、心底思った。


「花鍬さんは、僕の口から何が出てきたように見えましたか」

「芋虫です。白い芋虫。むっちりした、多分、あれは、蛾の幼虫。でも、私、怪異の見え方が、少し特殊らしくて」

「特殊? そうなんですか? 僕がいつも吐き出すのは、蛾の幼虫ですよ。白くてむっちりした芋虫です。貴女の言った通りの姿ですよ」

「白い芋虫以外には、吐き出さないんですか」

「今のところは。笑うとね、出てきちゃうんです。腹の中にいるらしくて」

「腹の蟲ですか」

「そう、腹の蟲。生まれつき、ずっといるんです。父も同じで。多分、父系の血筋なんでしょうね」


 血筋というものに、何か、引っかかってしまった。私だけではないのだな、という安心感か。それとも、血筋というだけで恐れを知らない彼への羨望か。どちらかと言えば、恐らくは後者の方が強かったように思う。

 十数年見え続ければ、私も平然としていられるように、なるのだろう。ただ、それでは遠い話が過ぎて、あまり意味がない様に思えた。


「腹の蟲を飼っているというのは、怪異に憑かれていながら、半分怪異みたいなもの……らしいですよ、韮井先生からすると」

「らしい、って、何だか投げやりな」

「確かに思考の放棄みたいなものですね。でもまあ、結局、そこを考えても何も変わりませんから」

「でもそこがわからないと、怪異を祓えないじゃないですか」

「祓う理由が無いので」

「怪異を見えないようにしたい、腹の蟲を殺したい、とは、考えたことはないんですか」


 一種の焦りか、私の言葉は少し、尖っていた。それに刺された藤馬君が、一瞬、表情を地面に落とした。立ち止まってしまった彼の隣で、私もまた、歩きを止めた。


「考えたことがなかった、です。えぇ、そうですね。無かった。今まで、一度も」


 辿々しい口で、彼はそう言った。宙を見る眼の、その視線を辿る。そこには何もいなかった。駐車場はすぐ目の前にあった。息子の様子がおかしいことに気づいたのか、運転席に乗り込もうとしていた桑実も、動きを止めていた。


「ずっと繭にもならない幼虫を、不思議だとも思わなかったんですよ」


 彼はそうして、腹部をさすった。喋る口元から、ボロボロと白い芋虫が湧き続ける。それを抑えようともせずに、藤馬はまた口を開いた。


「全てを当たり前だと、思っていたから」


 彼が言葉を唱え終わるよりも先に、私は、彼の口を自分の手で押さえていた。掌に、モゾモゾと動くこれが、彼の唇なのか、蟲であるのかは、定かではなかった。

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