第11話
人通りの多さに、脳が揺れる。桑実が私の腕を掴んでくれているおかげで、なんとか歩くことができた。
韮井先生達が「日差しがあるから」と言っていた意味を、やっと理解した。人工の光の中では、怪異は――――蟲は、潜むこともなく、溢れている。病院内の廊下のような割合では無いにしろ、絶対数は確実に多い。深く、意識的に息を吸うことで、少しだけ冷静にそれらを分析出来た。どうやら私に見えている蟲は、人間由来のものが多いらしい。勿論、街路樹の下や街灯の裏面にいる『蟲』も多くはある。ただ、はっきりとした形を持った蟲は、皆、一様に人間から湧き出しているようだった。疲れた顔のサラリーマンの、瞼から這い出る蝿。駅に急ぐ女子学生の頭に乗っている、巨大な天道虫。可愛らしい女子高生を口説くコオロギ――――蟲の姿をした人と、蟲を連れた人。様々なそれが、溢れかえって、最早、そういうコメディ映画のワンシーンにも思えてしまった。
私が少しだけ声を出して笑っていると、すれ違いざま、眉間に皺を寄せる女がいた。
「――――……蟲?」
酷く聞き取りづらい中性的な声。すれ違った女は確かにそう言っていた。私は足を止めて振り返ろうとしたが、腕を掴む桑実の歩速が、それを許さなかった。
私をジロリと見る目は、暗くて良くは見えなかったが、墨で塗ったような、光を通さない黒だった気がする。深く被ったキャップの中から、光を反射させる白い髪が、漏れ出していたのを思い出す。縁の厚い眼鏡には、度が入っていなかった。その硝子一枚隔てた顔は、とても、綺麗だった。一瞬の出来事が記憶に残るほど、美しい女だった。
私は息を呑んで、その造形を必死に頭に留めた。彼女を脳に再構築するのは、実に簡単だった。それだけ印象に残りやすかったのだ。
――――そう、そういえば、彼女の、肩には。
「人魚が、いた?」
蟲ではない異形に気付き、私はついに足を止めた。ガクンと膝を落として桑実が立ち止まり、倒れかける。
「何。どうしたの」
「え、あ、えっと、今、女の人が」
「女? 知り合い?」
私が首を横に振ると、桑実は首を傾げた。彼女に人魚はわからないだろう。だが、あの綺麗な女は、目に入っていたかもしれない。
「綺麗な白髪の女性とすれ違って……」
「白髪? そんな人いたかしら」
よく観察しているのね、と、桑実は呆れた表情で言った。脳神経に引っかかった記憶を、私は唾と共に飲み込んだ。大丈夫かどうかだけ口に出して、桑実は再び歩き出そうとしていた。今度は私が彼女の腕を掴んで、歩幅を揃えた。一見すれば姉妹にも見えるかもしれない。私も桑実も、顔形こそ違えど、黒い髪に黒い瞳なのは共通している。背筋を伸ばして歩く彼女は、そのみずみずしい頬や艶のある指先からして、恐らくまだ二十代半ばであろう。歳の離れた姉というものがいれば、彼女のようだったのかもしれない。
そうやって桑実を見ているうちに、彼女は、青い看板の前で足を止めた。全国的にも有名な進学塾の看板が、夜の道を照らし、その下から溢れる子供達の顔を輝かせていた。講師だろうと思える青年や若い女性達が、自動ドアの向こうで手を振ったりしていた。建物の中から出てくる小学生は皆、桑実と私を無視し、集団で駅の方に歩いて行くか、近くで手招く母親の元に駆け寄っていった。その小さな集団の中から、桑実の息子を探すが、彼女を視認して駆け出す子供は一向に表れなかった。ついには、中学生やら高校生やらが混じり出す。桑実の年齢で、十三歳以上の子供を持つということはないだろうと、私は塾のロビーから目を逸らした。
「藤馬!」
唐突に、桑実が手を上げた。指先でちょいちょいと手招くと、一人の少年が顔を上げた。
少年が乱れひとつなく着込むのは学ラン。それは私達が通っている大学の附属高校のものだった。早足でこちらに向かってくる彼の瞳は、燃え尽きた線香の灰を固めたような、仄かな色彩を湛えていた。夜の暗さで分かりにくくはあるが、血色の良い肌が健康的で、瞳の儚さを打ち消し、高校生らしい子供と大人の中間の雰囲気を示している。そこまで見れば、彼は明らかに、桑実の息子には見えなかった。
「母さん、お待たせ」
だが、少年は、確かに桑実に向けて、そう言ったのだった。私が目を丸くしていると、彼もまた、酷く動揺して、私と桑実を何度も交互に見た。
「連絡をしなくてごめんなさい。この人は花鍬樹さん。韮井先生から頼まれて、一晩だけ家に泊めることになったの。お父さんには先生が許可をとったから」
桑実が穏やかにそう言うと、彼は私を見下ろしながら、口をモゴモゴと動かした。血色の良い頬が、より赤くなって、目が泳ぎ出す。桑実が彼の背中を軽く叩くと、彼は背筋を伸ばして口を開いた。
「えっと!
元気の良いハリのある声だった。喉仏を上下させ、少年――桑実藤馬は笑った。口を大きく開く笑い方だけは、母親と似ていると思った。頬を上げて、首を傾げて見上げる。きっと明日は、顔は筋肉痛でこわばったままになるだろう。
「花鍬樹です。お邪魔しますね、藤馬君」
微笑む私を瞳に映して、彼は狼狽えるばかりだった。隣では、母親の桑実があっけらかんと笑っていた。騒がしい母子を仰ぎ見て、私は目尻を落とすほかなかった。
ふと見えた藤馬君の口の奥からは、白い芋虫が顔を覗かせていた。
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