第8話

「今朝、蛾を踏み殺してしまったんです」


 私は抑揚を抑えた声で、一日の出来事を語った。様々なところから湧く蟲達を、一つ一つ丁寧に、時間を追って整理していく。口に出してみると、どこまでも非現実的で、私が狂人だと結論付ける方が、手っ取り早いように思えた。

 そんな話に、先生と識君は、ずっと黙って耳を傾けていた。誘導も聞き返しもない。時々私が言葉に詰まると「大丈夫」「続けて」と識君が声をかけた。先生はそんな私たちの様子を、ただジッと見ているばかりだった。


「――――百足は、私が倒れる頃には消えていました。そして、目が覚めたら、ここに、綴と一緒にいました」


 私がそう言葉を結ぶと、先生はにど瞬いて、首を傾けた。


「蛾を潰してからなんだな?」

「はい。でも、その蛾も、消えてしまって……」

「その蛾の種類はわかるか」

「すみません。昆虫は無勉強で。種類まではちょっと。ただ、白くて大きな蛾でした。とても、ずんぐりむっくりって感じで」


 私が言い淀んでいると、ふと、視界の上で識君が動いた。


「ねえ、花鍬さん。その蛾って、こんなのじゃない?」


 彼は手にしていたスマホの画面を私に見せた。そこにあったのは、画像検索の結果ページだった。

 白いふさふさとした翅、毛玉のような腹に、広い触覚。それは、確かに、私が今朝踏み殺した蛾だった。


「こ、これです。これは」

「蚕の成虫だね。蚕にも色々と品種があるんだけど、今回はそこまで同定する必要は無いっぽいね」


 何か、答えを見つけたらしい彼は、そうやって私に微笑んだ。確かに、今ならはっきりと思い出せる。あれは蚕だった。社会の授業などでも見た事がある。

 識君が視線を送ると、先生は頬を掻いて溜息を吐いた。


「蚕蛾は自然界には存在しない。街中で君がたまたま踏んでしまったというのはあり得ない」

「つまり、今朝の蛾も、貴方達の言う怪異だったということですか」

「そう考えるのが妥当だろうな。それに、花鍬樹という存在との関連性もある」


 先生は私を見て、腕を組んだ。彼は人差し指を数回、リズムよく動かすと、口を開いた。


「私が君のお祖母様を訪ねたのは、オシラサマという怪異について取材するためだった」

「オシラサマ……ですか?」

「その様子だと知らなかったかもしれないが、オシラサマというのは、一部地域で信仰される神の一種だ。君の家ではその類型を祀っているとされていた」


 私の知らない私の家を、先生は淡々と語る。彼は少し疲れたような表情で、目を伏せていた。


「その姿形や信仰は様々だが、この辺りでは蚕の神としての扱いが多い」

「確かに、関連性はあるように見えますね」


 初めて聞く単語の繋ぎ合わせを、私は自分でも驚く程冷静に、理解していた。先生の声が落ち着いているからか、それとも自分の視界を肯定する人がいると、わかったからか、その両方か。要因はわからなかった。それでも、先生の見解を受け止める程度の準備は出来ていた。


「これは前提として聞いてほしい。花鍬樹とは、そもそも、怪異を蟲の姿で視認する特異な人間の名前だ」


 私が「はい」と頷くと、先生の口角が確かに上がった。


「だが君は怪異を、蟲を見る体質ではなかった。今朝、一匹の蚕を踏み殺すまでは」


 言葉を私の前に置いて、先生は深く息を吸った。無意識に私も肺を大きく膨らませていた。指先は熱を持って、何処か、心身が満たされているような感覚があった。


「君が殺したその蚕は怪異だ。オシラサマの眷属か、一部か、それはわからない。もしかしたら全く別の怪異かも知れない。可能性には幅がある。だが、それをきっかけとして、君はある意味で真に『花鍬樹』になったんだろう」


 先生の一言が、長い回答が、頭の中をぐるりと一周する。納得はしていない。ただ、飲み込むことは出来た。私は確かに花鍬樹であった。それ以外の何者でもない。オシラサマが何かなど、祀っているものなど、知っていることは少ないが、神経と神経が繋がったような、小さな爽快感はあった。


「何故今まで蟲に襲われていなかったのかがわからない以上、今後も君は怪異を、蟲を見続けるだろう」

「……見えなくする方法はないのですか?」

「怪異を視認するのは怪異に取り憑かれた人間か、怪異そのものになった人間だ。前者であれば取り憑いた怪異を祓えば良いが……君の場合はまた違うだろうな」


 僅かに先生が口を濁した。どう伝えるべきか、迷っているような素振りだった。私は、その言葉を待つより先に、口を開いた。


「では、蟲が見えるようになった私は、これからどうしたら良いんでしょうか」


 出来るだけ、先生の目を見つめた。真剣が過ぎて、眉間に皺が寄っていたりしたかもしれない。先生と識君が顔を見合わせていた。二人は共に私を見ると、今度は識君が笑った。


「逆に、花鍬さんはどうしたい?」

「どうしたいっていうのは……」

「怪異が見えるのは僕も同じだからさ、怖いとか、気持ち悪いっていうのは、わかるんだよ。君の場合は神々しく美しい怪異ですら、蟲の姿に見える訳だし、僕なんかよりもっと酷いんだと思う。その上で、もう一回聞くね」


 彼はにこやかに、優しく、紳士的に、口を開いて見せた。


「花鍬さんは何が何でも蟲から逃げたいのか、それとも、どんな形でもただ平穏に生きていきたいのか。どっちなのかな」


 識君の語尾は、鋭角を持っていた。彼の目線は、何処か痛みがあった。その言葉の中に、苛立ちのようなものが生えているように思えたのは、私が臆病であるからか。

 私の返答を待つ沈黙が、ただ、冷ややかだった。

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