第9話

 私が口を澱ませていると、痺れを切らしたのか、先生が大きく息を吐いた。私はそれを受け取るようにして、浅く息を吸った。


「今のは最終目標の話だ。そのうち考えなければならないだけで、今の話ではない」


 前のめりになっていた識君の裾を掴んで、先生は言った。背筋を正した識君は、一歩、先生の後ろに下がった。


「今からの話をするのであれば、まず君の安全についてだろう。君が蟲に襲われたのは、大学と自宅だ。今後の生活基盤となる場所で怪異に襲われるというのが、現在の問題だな」


 淡々と、先生は状況を吐き出していく。私は蟲を見たというよりも、襲われたという方が正しいのだろう。耳の中から這い出た芋虫や、視界を阻む蝶の大群、体を這い上る百足。心身を蝕んでいるのは確かだった。


「とりあえず、今日はもう自宅には帰らない方が良い。これは桑実から聞いた話も踏まえてだが、本来関わりの無い友人にまで百足が見えたというのが引っかかる」

「あの、それじゃあ、さっき綴が……一緒にいた私の友人が青ざめていたのは何故ですか?」


 どうも、先生の言い方からして、綴には何も見えている筈がないように思える。しかし綴は、先程しっかりと、病室の隅の「鹿」もしくは何がしかを視認してしまっているようだった。


「菖蒲綴が怪異を視認していたのは、アイツが好きに存在をアピール出来る怪異だから……と言う他ないな」

「そんなのもいるんですね」

「あれはそれなりに強い怪異でな。強い怪異は自分より弱い怪異を覆うことも出来る。だから今、君の目には識が蛇玉野郎には見えていないだろう」


 少し、ふざけるようにククッと先生が口端を引き攣らせた。識君は、今朝、手を差し伸べてきた異形と同一人物であったらしい。確信を飲み込んで、私はハハッと乾いた口内を震わせた。


「部屋を出ればまた蟲が現れる。怪異が全く存在しない場所はない。この町は元々、怪異が多いからな」


 先生はそう言って、病室の窓に目を向けた。窓の全てを覆っていた遮光カーテンが揺れる。風は無かった。だというのに、私の背筋は震えて、冷や汗が伝うのがわかった。


「明日、大学は休講日だ」


 意識がカーテンの裏に飛んでいた私に、先生が呟いた。


「君の自宅を、花鍬家の土地を少々調べたいと思っている。今日は……桑実の家に泊まってもらって、朝になったら迎えに行くから、どうだろう」

「うちを調べるのは大いに有難いのですが。桑実さんの家にですか」

「アイツなら今の君の状況を理解しているし、旦那や息子の方も私達と見知った仲だからな。間違えが起こることはない」


 数秒、考えるふりをして、私は頷いた。以前まで共に住んでいた父と祖父の家に転がり込んでも良いが、母や祖母について知っていた筈の二人が、今まで私に何も教えずにいたことが、不審で仕方がなかった。何より、先生達の言葉を飲み込めば、桑実家はそれなりに安全なのだろう。


「なら、早速動こう。もう日が暮れる。識、桑実と連絡出来るか」

「丁度来てるよ、連絡。院内食堂で菖蒲さんとお茶してるって」


 ネクタイを緩めながら、先生は立ち上がった。識君が笑って、手に持っていたスマホを振って見せた。彼らの動く勢いに押されて、私もベッドの上から足を下ろした。靴も鞄も、全て床に置かれていた。それらを身につけて、リノリウムの床を蹴る。先導する先生の革靴を追った。識君は私の隣に歩速をを合わせていた。部屋を出てすぐ、私は彼の顔から目を逸らした。

 視界から輪郭を追い出す。先生の黒いスーツを追えば、何処に導かれているのかわからなくとも、安心感があった。床の傷から、一瞬、機械にも似た甲殻が見えることもあったが、すぐに目を瞑って、前を見た。そうすれば、今度は壁の染みや通り過ぎる人々の口や耳から、甲虫の角などがチラと見える。私は必死に、薄目になって、更に輪郭を閉ざした。息が上がる。浅い呼吸で、なんとか酸素を取り入れようと、何度も横隔膜が動いた。視覚を遮っても、耳や鼻を捥ぎ取ることは出来ない。病院にある筈のない土の臭いや、幼虫が葉や腐葉土を齧る音が、脳の皺を埋め尽くすようだった。

 そんな私に気づいたらしい識君が、小さく囁いた。


「あと少しだよ。大丈夫、明るいところに出れば、少し減るだろうから」


 確かな人間の声に混じって、くちゃくちゃと粘液が混じる音がした。きっと、この目を彼に向ければ、今朝のような蛇の交合と蛭の営みが見えるのだろう。私は悟君に向けて、コクリと頷いて見せた。

 数回、韮井先生の足音が聞こえ、止まった。革靴の裏が床と擦れて、甲高い音を立てる。


「いい加減目を開けろ。気にしなければ害はない」


 先生の言葉で、私はいつの間にか閉じていた目を開けた。西日が硝子を通って、乱れていた。白いテーブルと何人かの患者か職員かが、周囲で食事などを楽しんでいるのがわかった。そんな賑やかな中で、私を見上げる綴が、眉間に皺を寄せていた。彼女は自分が座る隣の椅子を引いた。


「何かいたの?」


 綴の少し弱い口に、私は微笑むしかなかった。


「いたかもしれないし、いなかったかもしれない。わかんないや」


 直感で出た言葉を、口から零す。彼女は訝しげに私と先生を交互に見た。先生はククッとまた引き攣ったような笑みを浮かべていた。

 何があったのかわからないといった彼女に、私は淡々と、覚えていただけのことを並べた。誰もそれを止めることはなく、綴でさえも、ただ、聞くだけだった。私たちの背後では、先生達が私のことを話していた。言葉につまづいて、現実感を伴った空想のようなことを語っている内に、外は淡い葡萄色とピンクの混ざった空が浮いていた。

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