第7話

 認識を唾液と共に喉奥へと落とす。

 腐肉と膿、蛆と羽虫の群れは、ゆっくりと、確かに「足」を上げた。それが息を吐く度に、鼻孔を蹂躙する香り。当初は花や果実を煮詰めたジャムのようにも錯覚出来た。だが、理解が追い付いた頃には、それが、猫の胃の中身か、或いは人の吐瀉物の臭いに近しいとわかった。私の喉奥からは、そんな臭いと同じものがこみ上がって、嗅覚を板挟みにしていた。


「あれは、何だと思う」


 静かに、韮井先生は再び問いを放った。冷ややかな視線は、私に視えるものを察してのものだろう。彼の隣では、識君が苦々しい飴でも舐めるかのように、口元を歪めていた。


「蛆です。腐肉を漁って群がる、蛆。それを纏って、息をする……何か、大きな、四足動物」


 何かと問われて出る言葉は、それくらいのものだった。だというのに、識君も、私の隣で同じように「それ」を見る綴でさえ、私を見て、目を丸くしていた。


「君の目は、注意は、まず蛆に向ったんだな?」


 私に感情を寄せずに、淡々と観察を続けるのは、韮井先生だけだった。私が頷くと、彼の口角が、ほんの数ミリ上がったような気がした。そうして、先生は私の視界を右手で覆った。


「これから行うことは、一種の視力検査のようなものだ。緊張する必要はない。あれは君や友人に危害を加えないし、君に付き纏うこともない。もし、腐敗臭で鼻がダメになっているのなら、深呼吸でもすると良い。その臭気は、君だけの錯覚だ」


 目が淡い闇に浸かっている間、先生はそうやって私を宥めた。口で肺に空気を送り、鼻で出す。吐息を合図に、先生は中指と薬指の間を開いた。

 彼の指の隙間には、鹿の頭骨があった。臭いは酸味を含んだ生ゴミのそれではなく、牧場にも似た獣臭へと転じていた。先生の作る小さな視野の中は、蛆も蠅も、肉の塊も無い。在るのは、奇妙な「鹿」の一頭だけだった。その鹿は、首から下は特に不思議なものではないが、唯一、頭部のみは、この世のものではないと証明していた。一番に目が入った頭骨は、図鑑で見たような様子とは異なり、生い茂る樹木の如く、大きく広がっていた。根本を支える頭骨そのものは、どうもスッキリと細かった。よく見れば、骨は下顎を欠いて、代わりに、人間の頭がその骨を被っているようだった。がらんどうの眼孔から、その異形は、私を確かに睨んでいた。ゆっくりと、一歩ずつ、私達の方へと蹄を鳴らす。先生の害はないという発言が、嘘なのではないかと疑ってしまうほどに、空気は冷めていた。

 この、異形への感情を、どう唱えるべきか、私の口は迷っていた。


 ――――これは畏怖、或いは。


「美しい――――お人、ですね」


 恐怖よりも、何よりも、表現に辿り着いたのは、その感覚だった。自分の知らなかった名画を、触れる距離で実際に見せつけられているような、そんな心の震え。次第に、脳の奥から出てはいけない体液が溢れる感覚を覚える。私は無意識に、両手を伸ばしていた。綴の手を振り払い、鹿を、私に向ってガチガチと歯を鳴らす「彼」を、受け止めようとしていた。

 指先が、彼の唇に触れる。


 その瞬間、先生が右手を握りしめ、空間を薙ぎ払った。


「もう良い。帰れ」


 冷たく放った言葉は、私に向けたものではない。鹿は再び蛆に塗れて、先生に微笑み、霧散した。部屋にはもう、私達人間以外に、生命はなかった。


「あれは結局、何だったんですか」


 沈黙を破ったのは、綴だった。彼女に私と同じものが見えていた確証はないが、凡そ現実感のある存在を目視してはいないだろう。顔の白さからして、彼女にとっては恐ろしいか、気色悪いものであったのは違いない。


「二十年来の友人だよ。私の」


 先生はそう言って、私達を見下ろしていた。


「或いは、私達が怪異と呼ぶもの」


 怪異――――そう言われて、思いつく具体性はなかった。ただ、その名称からして、随分非科学的な生命なのだろうとは思った。


「怪異とは、認識の副産物だ。私の友人さっきの奴のように、奇妙な姿をしている者もいれば、人間そのものである者、視覚や夢といった非物質として現れることもある」


 さて。と、先生は息を置いた。同じ学部でもないというのに、彼は私達を自分の学生として扱っているようだった。


「花鍬樹――――君に見えている『蟲』は怪異か? 或いは、君は色とりどりの錠剤でも嗜んでいるのか?」


 冗談ではない。だが、真剣なようにも思えない。私の理解を置いて、この人は私の視界に説明を付けようとしている。


「……何故、私に虫が視えているのだと、お思いに?」


 私は一言も、韮井ミツキという男に、今日のことを話していない。桑実にだって、今朝、蛾を踏み潰したことしか伝えていない筈だ。


「私は花鍬樹と話をしたことがある」

「私は過去に先生とお話した覚えは無いのですが」

「君ではない。君の祖母と母だ。君達は代々、同じ名前を持って生きて来た家系だ」


 そうだろうと、先生は首をコキと傾けた。

 私は祖母の名を知らなかった。母の名を呟く父の姿も見たことが無い。故に、彼の問いかけには、無言しか示せなかった。


「君の祖母は、怪異を知る人だった。かつての花鍬樹――――彼女達は、怪異を一様に『蟲』と呼んだ」


 先生はそう言って、近くにあったパイプ椅子を引っ張り出した。それに腰を下ろした後、長い脚を組んで見せた。


「ここまでの話を聞いて、君は私に話したいことがあるんじゃないか。そして、それらに関して、私の見解を知りたいんじゃないか」


 視界の端では、桑実が綴を病室の外に連れ出そうとしていた。彼女の血の気が引いて、混乱している姿を見れば、誰もがそういう措置を取るだろう。一方で、識君は少し困った様に眉を下げながら、先生の後ろに立って、私を見つめていた。


 病室の扉が閉まって、また数秒の沈黙があった。そうして、私は重い唇を小さく開いた。

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