不実

葉月りり

第1話



「ただいま」


 彼が帰ってきた。今日はいつもより早い。玄関まで出て行ってビジネスバッグとコートを受け取る。


「寒かった〜」


と、私の頬に冷たい頬を押し付けてくる。


あ、今日はなんの匂いもしない。真っ直ぐ帰ってきたんだ。


「腹減った〜。今日のご飯はなに?」


「今日は豚ロースのねぎ味噌焼きと、春雨サラダ、切干大根の煮たのに小松菜の煮浸し。あと、お義母さんが送ってくれたいぶりがっこ」


「やっぱご飯じゃなくてお湯割! 風呂入ってくる!」


 いつも私の作るご飯を美味い美味いと食べてくれる。専業主婦の私の生活リズムも尊重してくれる。趣味の習い事やお友達との付き合いも、楽しんでおいでと送り出してくれる。適度に面倒をかけてくれて、適度に私に甘えてくれて、彼の匂いに包まれるのを心地良いと思う時もないわけではないんだけど。


 ただ、彼は私の知らない匂いを纏って帰ってくる時がある。それが不実の匂いであるのは確かだ。でも、私はそのまま気づかぬふりでいる。今のこの生活を守るため、波風立てぬよう私は彼が望んでいると思われるかわいい妻でいるよう努めている。


「くう〜っ、美味い!」


芋焼酎のお湯割と切干大根、そんな素朴なものに彼は上機嫌だ。


「いぶりがっこのお礼、お義母さんに電話したの。そしたらね」


「また孫ってか」


「うん」


「ん、ま、でも、そんなに一生懸命に考えなくても。んー、とりあえず、自然に任せるってことにするか」


「う、うん。そうだね。自然でいいよね」


と、返事したけれど、こんな私たちが親になれるとは思えない。今のままでは無理だと思う。私も変わらなければならないし、彼にも変わってもらわないとと思うと途方に暮れる。


 私も小さなグラスに少し芋焼酎を注いで舐める。やっぱりキツイ。少しお湯を足す。この“黒天狗”は香りがとてもよいから、香りの湯気を楽しむのも好き。


「あれ? 明日は美也ちゃんと月一女子会の日だっけ?」


「うん。でも、明日は美也だけじゃなくて、カメちゃんも一緒に紘子の家に行くの。紘子の赤ちゃんが三ヶ月になって、落ち着いた頃だろうから見せてもらおうってなって」


「ちょうどいいじゃん。抱っこさせてもらってどんな感じか観察してくれば」


「うん。そうだね」



 鏡に向かって私は念入りにパッティングし、美容液パックを貼る。彼は少し赤い顔でもう眠そうだ。


「大変だね。女子会も。見た目で遅れを取らないようにって。それって、アレか、最近よく言うマウント取られないようにってやつか」


私は思わず吹き出す。


「やーん、笑わせないでー。皺になっちゃった」


「あははは、こりゃ失礼。おやすみ!」


彼は背を向けて肩まで布団を引っ張り上げた。


 私が肌を整えるのも、新しい洋服を用意するのも、別にマウントを取るとか取られるとかじゃない。ただただ、あの人と釣り合う女性でいたいから。月に一度、あの人と過ごすために私は自分を保っている。明日も紘子の家に行った後は、あの人と過ごせることになっている。不実なのは私も同じだね。



 美也とカメちゃんと三人で待ち合わせして紘子の家へ向かう。美也はいつもいつも綺麗だ。カメちゃんも男の子二人のお母さんとは思えないくらい若く可愛らしい。


 玄関に迎えに出てくれた紘子はまだ少しふっくらしていたが輝くような笑顔だった。リビングに通されるとカメちゃんは早速、


「あーん、かわいいー、いいなあ女の子」


と、赤ちゃんを覗き込む。


「うち、男の子二人でしょ。もう毎日怒鳴りっぱなし。ここんちみたいに綺麗に片付いてる時なんかないんだから。ねぇねえ、いい?抱っこ」


カメちゃんは手を消毒してワクワクした顔で紘子に頼む。紘子は和かに


「うん。花奈です。よろしく」


と、カメちゃんに赤ん坊をわたす。


「わあ。柔らかーい。全然違うんだ、男の子と。犬と猫くらい違うよ」


「あ、それ、私も思った。兄貴のとこの男の子抱かせてもらった時とホントに違ってて、柔らか過ぎて、怖くなっちゃったよ」


 カメちゃんと紘子はそのまま子育て談義に入って、子供のいない私と美也はついて行けなくなってしまった。でも、二人の楽しそうな様子は、見ているだけでも楽しかった。そのうち


「由美子も抱いてみる? 由美子も美也もそろそろ考えてるんじゃない?」


 紘子が私の隣に来て、ピンクのおくるみを私に預ける。フワリと私の腕の中に置かれた赤ん坊は、ミルクくさくて、鼻の奥がくすぐったいような感じがした。花奈ちゃんは泣きもせず、目をパチクリさせて私を見つめる。戸惑いながら笑顔を作り、「ハーナちゃん」と呼びかけてみる。花奈ちゃんはジッと私の口元を見ていたが、そのうち口を大きく開け欠伸をし、小さな手をおくるみから出して伸びをした。不意に赤ん坊の全身の力を感じた私は、落とさないようにしっかり花奈ちゃんを抱きしめた。その時、


「え?」


私の目から涙がこぼれた。


「由美子! どうしたの?」


「あ、いや、違う違う!」


「ゴメン、由美子、わたし、ひとりで浮かれちゃってた? なんか、ゴメン。ゴメン。」


紘子がオロオロしながらゴメンを繰り返す。


「違うの、違うの! 私こそゴメン。今、花奈ちゃんの欠伸をみてたらね、こんなに小さいのに私たちと同じ形してて、動いて、欠伸までして、しっかり生きてるんだなあって。そしたら涙がでちゃった。あはは」


美也が私の後ろから私に頬を寄せるようにしてハナちゃんをのぞき込む。そしてふふふっと笑う。


「ホントかわいい。そうだね。一生懸命生きてる」


美也はハナちゃんの頬に指先で触れながら言う。


「みんなで愛すべきものだね」


紘子は八の字になった眉を解いて安心したように笑う。


「わたし、この子を生かしておくことだけしか今は考えられないの。だからなんか無神経なこと言ってたら教えてね。ホントに良い妻、良い母なんて私には無理って思った。もう旦那なんて放ったらかし。一日中ずーっとこの子の顔見てるとね、帰ってきた旦那の顔見た時、何このでかい顔!ってびっくりするんだから」


私たちは紘子の話に大笑いをした。


 ハナちゃんちゃんがミルクの時間になったので私達は早々に解散した。カメちゃんは幼稚園のお迎えがあると急いで帰って行った。



 私と美也は寄り添って歩く。そして二人だけの空間を求めて小さな箱に入る。隠れ家のような入り口の小さなホテル。狭いけれど清潔で飾り気のない素朴な部屋で私たちは月に一度、ほんの数時間を過ごす。


「今日はゴメンね。泣いちゃったりして。美也がフォローしてくれて助かっちゃった。ホントに花奈ちゃんは可愛かったし、紘子が何を言ったわけでもないし、自分でも涙が出るなんてビックリしちゃった」


「子供、欲しくなっちゃった? それは私たち二人では無理だなあ」


と、美也は笑って言う。そして、ふと真顔になって、


「もしかしたら、本当に愛せるものが欲しくなったのかもね」


「え? やだ、なんで? 私は美也を…」


美也の唇が私の唇を塞ぐ。抱きしめられて美也の匂いに包まれたらもう何も考えられない。



 この人がいないと生きて行けないと思うほどの高まりを覚えても、私はそそくさとシャワーを浴びる。備え付けのソープは使わず熱いシャワーだけを。


美也は何も言わずに私の帰り支度を手伝ってくれる。私の全身をぐるりと見て、


「うん、大丈夫。いつもの由美子」


「ゴメンね。いつもさっさと帰っちゃって」


「しょうがないよ。こうなった時にはもうお互いパートナーがいたんだから。私は大丈夫。今日は仕事してることになってるから。また、来月ね。LINEするから」


私は美也を残してひとりで部屋を出る。

なんてひどい女だろう。


美也に甘やかされ、夫に甘やかされ、私はぬるま湯の中に漂っている。私は自分の足で立とうともせず、心地良いと思う方へただ流されて行く。


私にはいつか必ず罰が降る。



おわり

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不実 葉月りり @tennenkobo

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