第970話 胸がドキドキする男 8

(前回からの続き)


 目が覚めたときにはもう手術が終わっていた。


 どうやら病室の外のようだ。

 みんなでオレの寝ているベッドを頭から病室に入れようと苦労していた。

 頭と足の向きが反対じゃないか。

 さらに病室の中でベッドを回そうとしたが、これもうまくいかない。


 そこでオレは言った。


僭越せんえつながら、一旦病室の外に出して頭と足を入れ替えて、足から入れたほうがいいんじゃないでしょうか」


 そうするとうまく入った。

 手術前に頭の中で無意識にシミュレーションをしていたのかもしれない。


 そばにいた外科の担当医に時間を聞いた。


「午後4時です」


 そう言われてホッとした。

 もし胸腔鏡でのぞくだけで引き返していたらおそらく昼前だろう。


 夕方までかかったんだから手術を完遂かんすいしたに違いない。



 と言うわけで、無事に手術が終わった。


 以降は第7話「麻薬の世界にひたる男」でも書いた通り術創じゅつそうの痛みに耐えながら術後を過ごした。

 退院してからも何かと咳が出る。

 咳が出ると創部が痛んだ。


 職場に復帰したのは手術から2週間後位ではないかと思う。

 しばらくは息が切れて歩くのもつらかった。

 横断歩道を渡るときに、信号が青から赤に変わるまでに渡りきれるかどうかと言う感じだ。


 それから少しずつ体力回復して1日何千歩か歩けるようになった。

 気がつくと、何年もの時間がっている。

 幸い胸膜播種きょうまくはしゅもなく癌はすべて取り切れていたようだ。


 特に再発の兆候は無い。

 手術した呼吸器外科医は「ムハハハ。自分で言うのもなんですけれど……」と言っていた。


 こういう表情をするときには会心の手術ができたと思っている時だ。

 俺も外科医のはしくれだからそれはよくわかる。


 ということで死ぬかもしれないと思った病気から無事に生還することができた。

 ただただ現代医学の進歩に感謝するばかりだ。



 心臓の手術の後は、外来患者に対して「自分より長く生きている人間が何で不平を言ってるんだ」と思った。

 でも肺の手術の後はそうでもなく「ひょっとしたら私の方が先に天国に行って待ってるかもしれません」みたいな軽口を言う余裕もできた。


 それは病気が完治かんちしていると言う確信かもしれないし、多少はオレという人間が進歩したのかもしれない。


 ちなみにその目で見たら15年ほど前に別件で撮影した胸部CTで既にすりガラスえいはあったのだそうだ。

 もちろん誤診とかそういうことではない。

 当時の放射線科医がそれの陰影を指摘できなかったとしても、それは仕方ないことだとオレは思う。



 手術から4ヶ月ほどった頃だ。

 オレはある講演会の演者として新潟にいた。


 手術直前に頼まれたものだったが、その時は引き受ける事はできなかった。

 4ヶ月後に行けるかどうか確約できなかったからだ。


 でも、無事に生きて新潟の地に立つ事ができた。


 かの講演会の冒頭、オレは皆の前で簡単に自分の病気の経過を説明した。

 そして「ここに来ることが私の人生の目標でした。新潟は、私にとっての『約束の地』です」と言ったが、聴衆には全くウケなかった。


「新潟の人たちは真面目なので、先生が『約束の地』と言ったら本当に皆さんそう信じておられますよ」と後で座長に言われた。



 さて、いいとしの医師が集まれば病気談義になる。

 胆石、狭心症、尿路結石、肺癌という自らの闘病人生を披露すると皆が引いてしまう。


「先生、それでよく生きておられますね。僕だったら闘病より先に心が折れてしまいますよ」


 オレだって精神的には降伏寸前だった。


 とはいえ……この世に生きている人間の全員がいずれ死んでしまうわけだ。

 できれば、死ぬまでにさとりを開きたいものだと思う。


(「胸がドキドキする男」シリーズ 完)


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