第969話 胸がドキドキする男 7

(前回からの続き)


 あとの記憶は順不同だ。

 色々な事が一気呵成いっきかせいに進む。

 

 喀痰かくたん検査、頭部MRI、PETペット検査、歯科受診。


 最大の恐怖は気管支鏡だった。

 胃カメラですらオレは苦しい思いをしている。

 ましてや気管に何か入れられるというのは考えただけでも恐ろしい。

 が、適度に鎮静されていたせいかおそれていたほど気管支鏡は苦しくはなかった。

 ただ、夕方頃から熱が出てきたのは予想外だ。


 病室に脳外科の外来ナースがやってきたので、問われるままにいくつかの指示を出した。

 もちろん彼女が判断できる事は勝手に進めているが、中にはどうしてもオレが決めなくてはならないものもあったからだ。


 ちょうどいい機会だったのでオレは熱について尋ねてみた。


「そりゃあ先生、熱は必ず出ますよ」

「あっそう。知らんかった」


 考えてみれば不潔な口腔こうくうを通して清潔であるべき気管内に異物を挿入するわけだ。

 多少の炎症や感染も起ころうってもんだぜ。

 そう思ったら少し安心した。

 幸い熱の方も夜中をピークとして徐々に下がってくる。

 翌日、無事に退院した。

 

 ところが生検せいけんの結果は見事に腺癌せんがんだった。

 もう手術しか手段はない。


 同僚の呼吸器外科医には「私が切ってもいいですが、がんセンターでも大学病院でもどこでも御希望のところに紹介しますよ」と言われた。

 でもオレは「先生が手術してください」と答える。

 そうすると「分りました。じゃあ平常心で手術させていただきます」と返事された。


 なぜこの先生に頼んだのか。

 なんとなく手術室の評判は聞いていた。

 丁寧ていねいに止血してほとんど出血のない手術をするという噂だ。

 そして、たまたま開いていたドアからチラッと見えた部長室が異常に片付いていた。

 まあ、そんなところかもしれない。


 呼吸器外科をやっている医学部の同級生にいたら「あの先生だったら大丈夫だろう」と言う事でもあった。



 何故か法事が手術の直前になる。

 前年に亡くなった母親の一周忌だ。

 次の年は母親の三回忌という事になる


 オレは和尚おしょうさんに思わず言いそうになった。

「ひょっとして自分の一周忌をやる事になるかもしれないので、その時にはまとめてお願いします」と。

 もちろん、そんな事は口に出さなかったけど。


 また脳外科の秘書には「先生が病気になったら患者さんの気持ちが分かっていいじゃないですか」と良く分からないはげましをされた。

 でも、むしろ患者にこそオレの気持ちを分かってもらいたいと思う。


 特に「親が悪い」「政治が悪い」などといつも文句を言っている患者達には「そんなに不満があるんだったらオレと代わってくれ!」と言いたかった。

 人間、誰しも配られたカードで戦うしかないだろう。


 当然の事ながら、そんな内心の思いは表情に出さず淡々と仕事をこなした。


 さて、手術に備えて詳細な説明が行われる。

 「最初に胸腔鏡きょうくうきょうのぞき、胸膜播種きょうまくはしゅがあったらその時点で手術を中止して引き返します」と。

 CTなどの画像診断には限界があるので直視下に播種の有無を確かめなくてはならない。

 もし胸膜播種があったら、いかなる治療も無力だ。

 だから当然の事とも言える。


 そうそう。

 手術に備えて、頼まれていた講演をいくつか断った。

 新潟、岡山、鹿児島など。

 どの担当者の反応もオレが「すみません、実は肺癌の手術をする事になりまして」と言ったら「じゃ、ダメですね。お大事になさってください」とあっさりしたものだった。

 この即答が医師としてプロであるあかしともいえる。


 そうこうしながらも容赦ようしゃなく毎日が過ぎ、とうとう手術の日がやってきた。


 病室から手術室までは歩いていく。

 まずは側臥位そくがいで背中からの硬膜外チューブ留置。

 次に仰向あおむけになった。

 酸素投与が始まりオレの静脈内に次々と薬が入れられる。

 

 そのかん、オレがじっと見つめていたのは頭上の無影灯むえいとうだ。

 次の瞬間、無影灯にモザイクがかかり、オレの意識は暗闇に吸い込まれていった。


(次回に続く)


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