第894話 1型糖尿病と戦う男 2

(前回からの続き)


 名井分ないぶん先生が医師を志した理由が面白い。


 彼女は子供の頃からの1型糖尿病の治療ですっかり腐っていたが、両親に連れられて糖尿病の市民公開講座に出席したそうだ。

 講師はかの壱潟いちがた先生。


 妙に説得力のある講演だと思っていたら、最後に自らも1型糖尿病患者であるというカミングアウトを聴いて大いに納得した。

「これだ、これしかない。自分が医者になって自分で治療すればいいんだ!」と思いついた彼女は猛勉強の末に地方の国立大学医学部に受かることができた。


「さぞかし御両親は喜んだのでは?」というオレの質問に「親は関係ないですよ。自分の病気ですから」とあっさり答える彼女。

 ちなみに実家は大衆食堂をしているのだそうだ。


 現在の彼女は糖尿病専門医を目指しているが、自分の人生がかかっているだけにその向学心は並大抵のものではない。

 オレも医学生時代に「何を専門にするか迷っている人。自分の病気を選んだら間違いないですよ」と教官に言われたことがあるが、まさしくその通りの人生だ。



 さらに面白いのが某大学の先生から聴いた劇症げきしょう1型糖尿病の秘話ひわだ。

 面白いといってはいけないかもしれない、何といっても本人は死にかけたんだから。

 記憶に頼って述べるので細部が違っていても勘弁して欲しい。


 実はこの患者、その某大学の内科医だ。

「風邪をひいたのかな~」と思っていたら、あっと言う間に具合が悪くなり瀕死ひんしの状態になってしまった。

 1,000mg/dLに近い高血糖である事が判明し、仲間の内分泌内科医たちが懸命に治療して何とか一命をとりとめた。

 普通なら「糖尿病が隠れていたのか」で済ませるところ、さすが大学病院だ。

 誰かが糖尿病の指標であるヘモグロビンA1Cエーワンシーが正常である事に気づく。

「血糖値が高いのにヘモグロビンA1Cが正常……って、なんじゃそれ!」という事で色々調べた。


 ちなみに血糖値というのは、その時その場での血液中の糖の濃度だ。

 通常は食前で90程度、食後で120程度だろうか。

 これが200くらいに高くなってもこれといった症状は出ない。

 が、500とかの高血糖になると意識状態が悪化する。

 逆に30くらいの低血糖でも昏睡状態になってしまう。


 一方、ヘモグロビンA1Cは過去2~3ヶ月の血糖値を反映する。

 つまり、たまたま良好な血糖値であったとしても、ヘモグロビンA1Cが高かったら普段は真面目に治療していないことがバレてしまう。


 大学病院での高血糖患者の治療に話を戻す。


 この患者の場合、血糖値が極端に高いのにもかかわらず、ヘモグロビンA1Cは正常だった。

 つまり、普段は正常な血糖値の人間がいきなり超高血糖になってしまったというわけだ。

 ということは、健康な大人に突然の重症糖尿病が発症した、としか考えられない。


 そんなものは見たことも聞いたこともないぞ。

 ひょっとして世に知られていない病気だろうか?

 皆がそう思っていた所、突然の超高血糖で救急外来に運ばれてくる大人の患者もチラホラいる事が分かった。


 ということで、10数例がまとまったところで「これまで2種類に分けられていた1型糖尿病に第3のタイプ、『劇症1型糖尿病』がありそうだ」と担当医がNEJMニュー・イングランドに論文発表したのだ。


 一般にはあまり知られていないが、論文発表の場である医学雑誌にもランクがある。

 その頂点に君臨するのがNEJMだ。

 ここに論文を発表する事ができたら、たとえ偏差値的には底辺医学部の卒業生であっても誰もがひれす存在になれる。

 何処どこ大学卒だとか、学位の有無とか、何の専門医だとか、そんなものを全て吹っ飛ばす核弾頭なみの威力だ。


 もしひれ伏さない医師がいたら、そいつは何も分かっていない。

 研修医からやり直した方がいだろう。


 さすがにNEJMで劇症1型糖尿病の存在を提唱した先生はその後に内科の教授になった。

 そして劇症1型糖尿病で死にかけた先生も今ではある病院の院長をしている。

 もちろん愛用のインスリンポンプと苦楽をともにしながら、だけど。


 こうしてみると「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」というチャップリンの言葉通りかもしれない。

 最後はみな喜劇になっちまうってわけだ。


(次回に続く)

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