第787話 体重の減った女 4

(前回からの続き)


 内分泌内科医の絨毯爆撃じゅうたんばくげき的検査から予想されるのは、ほとんどの結果が正常であり、異常があってもごくわずかだろうという事。


 そもそも検査結果の基準値なんてものは全員の結果の中位95%を機械的に示しているに過ぎない。

 だから、たとえば50項目の検査を行ったとして、すべてが正常の人は確率的に0.95の50乗で、僅かに7.7%だ。

 だから残り92.3%の人は何らかの検査結果が異常に出る。

 1つか2つの僅かな異常に拘泥こうでいする患者は珍しくないが、いつも「気にする必要はありません」と説明するのに苦労する。


 それはさておき、この患者の検査結果もほとんどが正常か僅かな異常だった。

 たった2つを除いて。


 その2つは抗甲状腺ペルオキシダーゼ抗体と抗サイロキシン抗体だ。

 どちらも異常高値になっている。


 甲状腺ペルオキシダーゼというのは前駆体ぜんくたいから甲状腺ホルモンであるT4やT3を生成する働きがある。

 だから、免疫系がうまく作動せず甲状腺ペルオキシダーゼに対する自己じこ抗体こうたいができてしまうと甲状腺ホルモンが生成せいせいされず、甲状腺機能低下症を招いてしまう。

 また、この抗体は甲状腺自体も攻撃するので、甲状腺ホルモンを異常放出させたり枯渇こかつさせたりする。

 いうまでもなく甲状腺ホルモンが異常放出されれば甲状腺機能亢進症になってしまう。

 すなわち、動悸、体重減少、発汗、手の震えなどの症状をていする。

 また、甲状腺ホルモンが枯渇したら甲状腺機能低下症を招く。

 症状としては、脱毛、記憶障害、寒がり、浮腫などが見られる。


 一方、抗サイロキシン抗体の方は甲状腺ホルモンであるT4に対する抗体だ。

 これが結合することによってT4が働かなくなり、結果的に甲状腺機能低下症を来してしまう。


 これら2つの抗体が陽性を示す代表的な疾患が橋本病や無痛性むつうせい甲状腺炎だ。


 橋本病の場合、最初は甲状腺機能が亢進するが、その後は甲状腺機能が低下したままになってしまう。


 無痛性甲状腺炎も似たような経過をたどるが、初期の甲状腺機能亢進症につづく甲状腺機能低下症は一時的なもので、最後には正常に回復する。


 今回の患者の症状と検査値からは橋本病か無痛性甲状腺炎の可能性が極めて高い。

 つまり当初は甲状腺機能が亢進し、動悸、体重減少、発汗、手の震えといった特有の症状が出ていたのだと思う。

 しかし、そのあとに徐々に甲状腺機能亢進が改善してきたのだろう。

 甲状腺機能の数値が正常化している。


 という事は患者の訴える症状も改善しつつあるはずだ。

 事実、総合診療科の初診から4ヶ月ほどしたら動悸がしなくなり体重減少も止まった。

 血液検査の数値で示される甲状腺機能と本人の症状とは必ずしも並行へいこうしていないが、検査値と症状がズレる事もあるのだろうと思う。


 ただ、注意深く検査結果をグラフ化してみると、当院の総合診療科初診時には正常であった甲状腺機能が、その後一時的に低下しており、また正常化している。

 つまり、機能低下が永続化する橋本病ではなく、最後には正常化する無痛性甲状腺炎だったのではないかと思われた。


 本人にとっても無痛性甲状腺炎の方がいい。

 循環器内科や内分泌内科の担当医はそろそろ終診しゅうしんを考えているようだが、オレとしてはかず離れずの距離感でフォローを続けようと思う。


 あれこれ考えさせられた症例だけに、すえが気になるのは当然だ。


(「体重の減った女」シリーズ 完)

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