第770話 説教をくらう男 2

(前回からの続き)


 これはまずい。


「すみません。小説執筆はほどほどにします」


 謝って話題を変えることにした。


「最近、看護学校で教えていまして」


 まさか、この話題で説教を食らうこともあるまい。

 そもそも看護学校で教えるというのは、病院にとっても大切な仕事だし。


「ああ御苦労さん」


 意外にも素直にねぎらってくれた。


「ところで看護学校では何を教えているのかな?」

「神経解剖です」

「そうか、脳外科医なら神経解剖は楽勝だろう」

「いやあ、そうでもないんですよ」


 実際のところ脳外科医に必要な解剖というのは解剖学全体のごく一部に過ぎない。

 一方、その一部が途方もなくこまかかったりする。

 これを手術解剖とか微小解剖と呼び、たとえば内頚動脈ないけいどうみゃく分岐部ぶんきぶから前交通動脈ぜんこうつうどうみゃくまでの俗にA1と呼ばれる部分の長さが平均何ミリで、その区間からの穿通枝せんつうしが平均で何本出ていて……みたいな話が延々と続く。

 この知識は手術には役立つが手術以外には決して役立たない。

 だから看護学校でこういった知識を教えるわけではない。


 代わりに教えるのは、静止膜電位せいしまくでんいとか、脱分極だつぶんきょくとか、再分極さいぶんきょくとか……

 そういったレベルの話だ。


「アクション・ポテンシャルなんて何十年ぶりですから、すっかり忘れていましてね」


 そう軽く言ったつもりが思わぬ地雷を踏んでしまった。


「なにっ! 先生はアクション・ポテンシャルも知らずに診察をしているのか?」

「えっ?」

「そんないい加減な事で診察なんかするべきじゃないだろう!」


 そう言われましても……


 困ったなあ。

 学生時代に習ったアクション・ポテンシャルをおぼえている医者なんか10人に1人もいないはず。


 この先生、何処どこに地雷が埋まっているか、さっぱり分からない。



 それ以来、会議や宴会ではなるべく離れて座るようにした。


 が、時には思い通りにいかない事もある。


 久しぶりの宴会での事。


 早く来た大先生が宴席の真中に座っていた。

 それを確認したオレは部屋の隅に陣取る。

「これで今日は安泰だ」と思っていたら甘かった。

 いつの間にか大先生が隣に移動して来たのだ。

 こうなったら死んだふりをするしかない。


「そうですね」

「なるほど」

「おっしゃる通りです」


 ひたすらこの3つを繰り返す。

 間違ってもギャグをかましたり場を盛り上げようとしてはならない。


 この作戦は思った以上に上手うまく行った。

 要するに歩くから地雷を踏むわけで、歩きさえしなければ踏む事はない。

 そしていつしか宴会は終わる。


 大先生もお年を召したのか、そもそも攻撃する気力が無くなってしまったようだ。

 話が長く、そしてネガティブな内容になりがちだった。


 でもこの際、長話ながばなしくらいは聞いてあげよう。

 説教よりはよっぽどマシだ。


 とにかく聞いているフリをすればそれで済む。

 外来で高齢者に対して同じ事をしたら、後ろで待っている患者たちの怒りを買ってしまう。

 でも、宴会では待っている人などいない。


 普段の仕事であれだけ鍛えた「聞き流しのわざ」だ。

 今この時に使わなくてどうする!


 そう思ったら急に気が楽になったぞ。


 大先生の長話?

 上等じゃねえか。

 どこからでもかかってきなさい!


(「説教をくらう男」シリーズ 完)


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