第768話 英会話寺子屋の男

「今日はどういった事で来院されましたか」


 外来診察室で医師が患者にかける最初の一言だ。


 これを英語にするとどうなるか?


 What seems to be the problem?

 What brings you to the clinic today?

 What matters to you?

 What's the reason for your visit today?

 How can I help you today?


 調べてみると、こんなに色々あるそうだ。


 その後のやりとりを日本語でシミュレートしてみた。

 メンバーは心臓外科医の芸川げいかわ芯三しんぞう先生と医師事務作業補助者の伊司野いしの字夢子じむこさんだ。


 芸川先生はいずれ海外に羽ばたきたいと思っている野心的な心臓外科医だ。

 だから英語での診療に慣れておきたいと思っている。


 一方、伊司野さんは外国語大学を卒業している中年女性だ。

 医師に代わって書類を作成する以外にも、時々は外国人患者の通訳を頼まれるので「もう少しスムーズに出来たらなあ」と常々思っていたのだとか。


 彼ら2人にオレが加わって外来診察室の一角で第1回の英会話寺子屋が病院で行われた。


 電子カルテの大画面にMSワードを表示し、彼らのやり取りを打ち込んでいく。


 芸川先生が医師役、伊司野さんが患者役だ。

「今日はどういった事でお見えになったのでしょうか?」と日本語で芸川先生が口火を切る。


「頭が痛いんです」

「いつからでしょうか?」

「一昨日からですね」

「吐き気、目眩めまい、麻痺、しゃべりにくいといった症状はありますか?」

「ありません、後頭部の痛みだけです」

「もともと頭痛持ちですか?」

「いや、そんな事はありません」

「これまでに何か病気にかかったとか入院したという事はありますか?」

「小学生の時に扁桃腺へんとうせんを切りました。後は出産の時くらいです」

「何か決まってのんでいる薬はありますか?」

「特にありません」


 こんな感じで病歴聴取が進んでいく。


 やはり心臓外科医が頭痛患者を診察するとなると日本語でも結構つっかえる。

 横から口を出したくなるのをオレは必死で我慢した。

 この調子でいくと、英語での診療は夢のまた夢だ。


 が、何事も努力あるのみ。

 途方もない量の勉強を続けているに違いない芸川先生に言うのも釈迦に説法だ。


「じゃあ、ここまでの所を英語にしてみようか」


 オレはそう言って大画面を2人に示した。


「いつから痛いのでしょうか?」くらいの簡単な日本語でもなかなか英語にならない。


 When did your symptoms start?

 When did your headache happen?

 How long have you had your headache?


 オレも含めて3人で色々な意見を出した。

 大切な事は簡単な英単語だけで構成されている事と、オレたち日本人でも舌が回ることだ。


 3人とも徐々に熱が入ってきたところで、突然スマホが鳴り出した。

 もともと30分間だけのつもりでアラームをセットしていたのだ。

「もう少しやりたい!」と思ったところで止めるのが長続きのコツ。


 最後に1回だけ芸川先生と伊司野さんの間で英語での病歴聴取をやってもらった。

 確かな進歩の手応てごたえを感じた2人は俄然がぜんヤル気になっている。


「じゃあ、次回は来週の同じ曜日、同じ時刻でやりましょう」


 そう言ってオレはMSワードをプリントして2人に渡した。


「次回は主訴を胸痛にしてやってみましょうか?」


 オレがそう言うと、芸川先生から「胸痛なら任せておいて下さい!」と心強い返事が返ってきた。


「いやいやいや。オレも総合診療科で鍛えているからさ。いくら胸痛が主訴でも簡単には負けませんよ」と心の中でつぶやく。



 いつも思う事だけど、勉強こそ最高の道楽だ!

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