第760話 悲しい男

「離婚したんですよ、つい最近」


 そう話を切り出したのは30歳になったばかりの男性患者だ。

 高次脳機能障害のためにオレの脳外科外来に通院している。


 2年前に結婚し、1年前に交通事故にあった。

 重症頭部外傷であったが、幸いな事に救命することができた。


 ところが、自分の感情を抑えるのが苦手になってしまった。

 いわゆる頭部外傷後とうぶがいしょうご高次脳機能障害こうじのうきのうしょうがいだ。


 普通の人ならちょっとイラッとする程度の事に我慢ができない。

 会社の同僚や奥さんに当たり散らしてしまう。

 当然、職場でも家庭でも次第にうまく行かなくなる。


「離婚の原因というと?」


 あまり根掘り葉掘り聴くのもどうかと思う。

 でも、この話は本人から振って来たものだから、原因を尋ねるくらいの事はしてもよかろう。

 そう、自分に言い訳する。


「家内の不倫未遂なんです」

「不倫……未遂?」


 そんな言葉があるのか。

 言わんとすることは何となく想像がつく。

 が、ここから先には進んではならないような気がした。


「それで感情を抑えることができなくて、家内を責め立てたんです」


 やっちまったか!

「不倫未遂」がどの程度の事を指すのかは不明だ。

 程度はともかく、男性としては容認できなかったのだろう。


 が、むしろ男性の普段の乱暴な言動が奥さんに不適切な行動を取らせてしまったのかもしれない。

 でも、そんな指摘をして男性の怒りがオレに向いたら大変だ。

 それは本意ではないので、無難な質問を続ける。


「子供は?」

「いませんでした。でも作る予定だったんで家も車も買ったんです」


 ローンの残る広い家に今は1人で住んでいるのだそうだ。


「それ、悲しいなあ」

「そうなんですよ!」


 職場の方でもうまくいっていないのかもしれない。

 転職することにしたそうだ。

 友人が勤務している別の会社に行くとのこと。

 仕事自体は同じような内容で、会社の規模は小さくなる。

 給料が増えるのか減るのかはえてかなかった。


 交通事故ってのは一瞬にして1人の人間の人生を破壊してしまう。

 いや1人ではない。

 奥さんをはじめとした周囲の人の人生も巻き込んでしまったわけだ。


 そうするとオレたち医師に求められる役割とはなんだろうか?


 救命するだけでなく、高次脳機能障害も治療し、なるべく元の状態に戻すことだと思う。

 残念ながら現在の医学は高次脳機能障害に対して無力だ。



 高次脳機能障害患者の家族は皆、口をそろえて言う。


「以前の主人は穏やかで家族思いの優しい人でした。なんでこんな事になってしまったのか……」


 この男性にしても事故にう前はローン返済のために頑張る一家の大黒柱だったのだろう。


 悲しいなあ。

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