第758話 感謝する男 3
(前回からの続き)
手術から1年後、担当のレジデントがたまたま愛田佳乃先生をみる機会があったそうだ。
「どんな状態だった?」と術者に尋ねられて「全然ダメです」と即答した。
「お前なあ、そこにタメはないんかい!」と怒られていたが術者の怒りも分からなくはない。
が、レジデントはレジデントで黙々と治療し、淡々と報告したに過ぎない。
やがて愛田妻之介先生が他院に異動になった。
以来、彼の顔を見るのは1年に1回くらいだろうか。
専門違いであっても医師会などで偶然に出くわすことがある。
オレが奥さんの状態を尋ねると、毎回「だいぶ良くなってきまして」という答えが返ってきた。
その「良くなってきた」というのがどの程度なのか。
目を開けるようになったとか、手を握るようになったとか。
たとえそのくらいであっても人によっては「だいぶ良くなった」と表現するのかもしれない。
それは完全に個人の主観的な評価だからだ。
そしてつい先日の事。
偉い先生の退官記念の会合がホテルで行われた。
たまたま愛田先生に出くわしたオレは、またしても「奥さんはどうですか?」と尋ねた。
すると驚くべき答えが返ってきたのだ。
「ベッドから起き上がるときに少しばかり介助が必要ですけどね」
「ということは意思疎通は可能ということですか?」
「ええ。全然大丈夫ですよ」
「凄いですねえ!」
正直な所、そんなに良くなっているとは予想していなかった。
「お医者さんとしての仕事はできるのでしょうか?」
「それは無理ですね。自分で自分の事が全てできるわけではないので」
いやいや、それでも立派だ。
そういえば、いつも小学生の娘さんが見舞いに来ていた。
彼女はどうしているのだろうか。
「娘さんの方は?」
「お蔭様でこのたび大学を卒業しました」
聞けば2つか3つ隣の県の国立大学医学部を卒業したのだとか。
ウチの病院にもその大学を卒業した医師が何人か勤務している。
「娘が独立してくれたので肩の荷が下りました」
「それはおめでとうございます」
「卒業式にね、家内と2人で出席したんですよ」
「障害のある奥さんと行くのって大変だったでしょう」
「僕にとっては大冒険でした」
新幹線と介護タクシーと車椅子を使って何とか大学まで辿り着いたのだそうだ。
「もうね、感無量でした」
愛田先生は涙声になっている。
「こうやって家内と生きていける事に毎日感謝しているんですよ。1日、1日を大切にして」
何とも立派な心掛け!
たとえ命が助かっても重度の障害が残ってしまったら不平不満を言う人が多い中、愛田先生は日々感謝して暮らしているわけだ。
あの時、諦めなくて良かった。
心からそう思う。
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