第747話 宿題のない男 13

(前回からの続き)


 オレは思った事を口にした。


「先生のように1つ1つの症状に丁寧に対応するのは理想的だとは思いますが、実際には時間がないでしょう」

「そう言う人は多いよな。『もっと時間をかければ出来るけど、3分間診療せざるを得ないんだ』って」


 オレにしたって午前中で20人の外来診察とかザラにある。


「でも、それは本当なのか」

「えっ?」

「『時間をかければ出来るはずだけど、時間がないから出来ない』って言い訳する奴は、たとえ時間があったとしても出来ないんじゃないかな」


 ぬぬっ。

 普段から何となく感じていた事をズバリと言われてしまった。


 時間がないから出来ないという状態にいつまでも甘んじている医者は、時間がなくても頑張っている医者に、知らない間に大差をつけられてしまっている。


「ワシにしても全部の患者の全部の症状に対応しているわけじゃない。3つ問題があっても『今日は1番大事な症状に集中しましょう』と言うことも良くあるからな」

「でも、先延ばしにしたとしても問題そのものは残っているわけでしょう」

「だから『この症状に決着がついたら次に行きましょう』と言うわけ。集中すべき問題は永遠に1つのままだ、種類は変わるかもしれんけど」


 うまい!

 こう言っておけば患者も1つずつ治していこうと頑張るはず。


「とりあえず自分の足で歩いて外来に通院している患者なんだから、すぐには死なないだろう」


 自分で歩くことができればトリアージタッグも緑色だ。


「分かりました。じゃあもう1つの趣味についてお伺いしたいんですけど」

「もう1つの趣味って?」

「英語ですよ、英語」

「おお、そうだった。英語はいつまでってもうまくなれないからな」

「先生はどこかに留学していたんですか?」

「メイヨークリニックだな」

「やっぱり英語では苦労しましたか」

「苦労なんてもんじゃないぞ。それは先生も知っているだろ」


 昨今は帰国子女の医師も増えたので言葉の苦労も減ったことだろう。

 が、オレたちくらいの世代は例外なく英語で死ぬほど苦労している。


「だからさ、せめて診察くらいは英語でスムーズにやりたいものだと思っているわけ」

「やっぱり目標がないと勉強って続かないですよね」

「それにすぐ御利益ごりやくがあるだろう、まずは自分が使う英語を学ぶって事から始めたら」


 そりゃそうだ。

 英語の先生に週末の予定なんかかれても困っちまう。

 それよりも目の前の患者の腹痛や発熱に対応しようってのが1番のモチベーションになる。

 患者だってオレの週末なんかに興味はないはずだ。


「とにかく漠然と勉強するより、自分にとって必要な英語を身につけようとする方が結局は早道だと思うよ。だいたいこの年になったら残り時間もあんまりないしな」


 65歳の日本人男性の平均余命は約20年。

 男性の平均寿命と健康寿命の差は大体9年くらいだ。

 だから部長先生が元気に生きられるのはあと11年になる。

 人生百年時代といいながら、案外短いことに驚いてしまう。


 うっかり70歳まで働いたりしたら自分の自由な時間が6年しかないわけだ。


 自分の身の振り方についても色々と考えさせられる事の多い会話だった。


(「宿題のない男」シリーズ 完)

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