第746話 宿題のない男 12

(前回からの続き)


 産婦人科部長の思いがけない心掛けにオレは驚いた。


「よく色々な訴えをする患者に対して『年だから仕方ないよ』という医者がいるけどさ」

「ドキッ!」

「そんな事、患者は百も承知で体調不良を訴えているわけよ」

「そうでしょうね」

「だから解決できないまでも、その辛さを少しは楽にしてやれないかな、とワシは思うわけ」


 この人、こんなに偉い人だったのか!

 続きを聴こう。


「だからたとえば『手足が冷えて便秘がひどくなって物覚えが悪くなった』という患者が来た場合に……」

「高齢女性って皆さんそう言いますから」

「でも、ひょっとして甲状腺機能低下症かもしれんよな」

「それもあるでしょうね」

「『年だから仕方ない』と言うのは、fT4とかTSHの測定をしてからでもいいんじゃないかな?」


 産婦人科の先生の口から甲状腺機能低下症の話が出るとは思わなかった。

 でも分娩の後にシーハン症候群になって甲状腺機能低下症の症状が出る人もいるのかもしれない。

 頻度は分からないけど。


「で、よくあるのが微妙にfT4が低くて、微妙にTSHが高いというケースだ」

「そうですね」

「先生だったらどうする?」

「内分泌内科に紹介するかな」


 幸い、オレの総診外来の隣に内分泌内科の先生がいるんで、いつも気軽に相談してきた。


「ワシも以前はそうしていたんだけどな」


 ということは、今は相談していないってわけか。


「人によるんだけど、数字絶対主義の医者も結構いるからさ」

「ええ」

「前に相談した先生には『TSHが10以上の時に甲状腺機能低下症と診断しています』と言われちまったよ」

「基準の甘い人でも4くらいに線を引いているみたいですね」

「でも、80歳で甲状腺機能低下症みたいな症状があってfT4が微妙に低かったら試しに少量のチラーヂンを処方してもいいんじゃないかと思うんだ」


 実際のところ「甲状腺機能低下症かな?」と思っても、TSHが10以上みたいな典型的なのはさほど多くはない。

 多くが4~5とか2台とか、微妙な数値だ。


「じゃあ先生は御自分でチラーヂンを処方しているんですか?」

「最近はそうする事も多いな。同時に抗体も測ったりしているけど」

「で、結果は?」

「少量のチラーヂンで調子良くなって感謝されるし、抗体も陽性に出ることが多いな」


 多くの甲状腺機能低下症というのは甲状腺が疲弊してホルモンが出なくなるわけではない。

 自己抗体が出来て甲状腺が働かなくなってしまうのだ。

 車にたとえればエンジンがポンコツになったのではなく、サイドブレーキが引かれて加速できない状態だといえば分かりやすい。


 エンジンのポンコツ度を調べるのは難しいが、サイドブレーキが引かれているか否かは自己抗体を測定すればすぐに分かる。


「甲状腺ホルモンや自己抗体を調べたりするのは大した手間じゃないし、チラーヂンの処方なんかも簡単だろ?」

「まったくその通りです」

「一手間かけて患者の人生が大きく変わるんだったら、そのくらいの事はしてやってもいいんじゃないかな」


 部長先生の意見にはオレも賛成だ。


 そもそも血液検査の基準値というのは95%の人間の検査結果の範囲で機械的に決められてしまっている。

 つまり高い方に外れた2.5%を異常高値、低い方に外れた2.5%を異常低値と称しているに過ぎない。

 潜在性甲状腺機能低下症が75歳以上の女性の20%を占める事を考えれば、多くの患者が基準値内と判断され、治療されないままになってしまう。

 だから便秘や物忘れなどの症状があってfT4が低め、TSHが高めであれば、たとえ検査結果が基準値内であっても治療した方がいいのではないかと思う。


 患者の訴える愁訴の1つ1つに対してこのように突き詰めて考えるようなら、それはそれは立派なお医者さんだといえる。

 でも分かっていても実行する時間がないのが現実だ。


 そこは部長先生、どう考えているのだろうか?


(次回に続く)


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