第743話 宿題のない男 9

(前回からの続き)


「先生の年齢になったら実感として分かってくるだろう。人間ってのは案外不自由な存在だってことが」

「もちろん職業柄、加齢による不調を訴える患者さんたちには毎日のように接していますから」

「いよいよそれが自分の事になってくるんだ」


 20代や30代の頃は自分が病気になるなんて考えもしなかった。

 年を取るってことも頭の中で理解していたにすぎない。


「ワシくらいの年齢になると夜中に3回ぐらいトイレに起きるわけよ」

「僕も1回ぐらい起きることはありますね」

「それにな、『オシッコしてぇ』と思ってから『もうダメだ!』というまでの時間が短くなってしまって、大抵はギリギリで何とか間に合うんだけど」


 その次の一言が怖い気がする。


「時には間に合わんこともある」

「そうなんですか!」


 それダメじゃん。


「オシッコに間に合わない人は部下の失敗をとがめることができないんじゃないですか」

「その通りだよ」

「『抗癌剤の量を間違えて患者さんが死んでしまいました』という報告があっても『バッキャロー!』って言えないですよね」

「怒鳴ったところで『オシッコを漏らす人に言われたくねえっす』とか返されたら反論できないからな」


 客観的に見れば死亡事故と尿漏れだったら事の軽重けいちょうがだいぶ違う。

 だから堂々と説教したらいいはずなんだけど……


「最近は二本松にほんまつくんに憎まれ役をしてもらっているんだよ」


 二本松先生は産婦人科の副部長だ。

 温厚な先生だから部下を叱責しっせきするのは荷が重いんだろうな。


「無事にオシッコが終わっても油断はならない」

「えっそうなんですか?」

「モノを収納してから1分後に内股をツツーッと伝うものに気づくわけよ」

「ひょっとして後で漏れてしまう事もあるんですか?」

「そんなに驚くなよ。だからワシは排尿後にブンブン振り回してからしまうことにしている」

「何ですか、それ!」

「1人の時はいいけどな、怖そうなオッサンが隣で用を足している時には振り回さない方がいいぞ」

「もともと振り回したりしませんよ」

「どんな言いがかりをつけられるか分からんからな」


 この人、毎日こんな事を考えて生きているのか。

 呆れた。


「オシッコの他にも色々と不具合が出て来るもんだ」

「まさか漏らすのがウンコ……って事はないでしょうね」

「そっちの方は今のところ大丈夫だけどな」

「じゃあ先生の不具合というのは何があるんでしょう」

「そりゃもう細かい事が色々あるからな。先生もワシの年になったら思い知らされるぞ」


 参考までに教えてもらっておこう。

 オレも年を取るわけだし、心積こころづもりも必要だ。


「まずは物忘れ。何でも忘れてしまうからメモが必要だ」

「それ、僕もぼちぼち来ています」

「そもそも何を忘れるかが予想できないから、何でもメモを取っておかなくてはならない」

「そうですよね」

「特に仕事関係の数字を間違えると大変な事になるからな」


 それこそ抗癌剤の量なんか間違えたりしたら命に関わる。


「だから職場でも自宅でも何でもメモするようになっちまった。情けないことだよ」


 この先生にしたところで小学校では神童だったのだろう。

 トランプの神経衰弱では無敵だったに違いない。

 過去の栄光が大きければ、それだけ落差も際立きわだってしまう。

 そのことは誰よりも自分が1番良く分かっているはず。


「尿漏れと記憶力の低下だけじゃない、他にも色々あるぞ」


 だんだん聞くのが怖くなってきた。


(次回に続く)




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