第740話 宿題のない男 6

(前回からの続き)


「いいか、ここに1億円の金額の入った貯金通帳と1000万円の入った貯金通帳があるとする。どっちか一方を選べと言われたらどうする?」

「そりゃあ誰が考えても1億円でしょう」

「ところがさ、この1億円の通帳を持った人には収入がなくて少しずつ貯金が減っていくわけよ。そうだな、1年間に500万円としようか」

「500万円減っても9500万円あるんだから悪くないと思うんですけど」

「そう、『悪くない』ってのは良い表現だよな」


 20年で消えてしまう1億円ってわけだ。


「ちょっと確認ですけど、貯金がなくなったら働いてもいいんですか?」

「いいよ。貯金も収入もなくなったら食っていけないからな」


 架空の話ながら少しばかりホッとした。


「で、1000万円の通帳の持ち主は働いているから1年に100万円ずつ貯金が増えていくとしよう」

「毎年100万円の貯金をするなんて頑張っていますね!」

「そうか? 家のローンの支払いなんて毎年100万円どころか200万円ということも普通にあるだろう。貯金をするのもローンを支払うのも同じだとワシは思うけどな」

「確かに……少ない収入の中から何とかひねりだすという意味では一緒かも」


 オレも家のローンを支払っていた経験がある。

 あれは結構な重圧だったし、完済かんさいしたときには頭上の雲が晴れたような気がした。


「結局、毎年500万円ずつ減っていく1億円通帳と毎年100万円ずつ増えていく1000万円通帳のどちらを選ぶか、という選択だと思ってくれ」

「難しいですね」

「ワシが思うに、幸福感という点では1億円通帳は1000万円通帳に負けるんじゃないかな」


 一方はすすべもなくジリッジリッと目減めべりしていく1億円。

 他方、ジワジワと増えていく1000万円。


 冷静に考えれば1億円を取るべきだろうけど、所有した時の幸福感という点では「減る1億円」は「増える1000万円」に勝てないんじゃないか?


「ワシが言いたいのは、客観的な数字よりもむしろ主観的な感覚の方が大切なんじゃないか、という事よ」


 深い!

 この人、単に産直さんちょくをしてベンツに乗っているだけの人ではなかったんだ。


「自分がどういう時に幸せを感じるのか、ということをトコトン考える事が大切だと思うな、ワシは」


 確かにその通り。


「先生の言いたいことはよく分かりました。ただ……」

「ただ?」

「確か『経済的自由には2つの意味がある』とかおっしゃっていませんでしたか」

「あ、ああ。先生もよく憶えているなあ」

「もう1つの深い話もぜひ聴きたいです」


 金持ちを目指すよりも部長先生の人生哲学を知る方が面白くなってきた。


(次回に続く)

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